ケータイ辞書JLogosロゴ 院内村(中世)


福島県>原町市

 鎌倉期から見える村名。行方【なめかた】郡のうち。永仁2年8月22日の関東下知状(相馬岡田文書/県史7)に「可令早平胤顕跡領知陸奥国院内・大三賀・八(兎)并波多谷」とあるのが初見で,岡田村とともに相馬岡田氏の本拠地であった。相馬氏の有力庶家である相馬岡田氏の祖胤頼の死後,院内村など3か村を嫡子胤盛に譲与されたが,建武3年頃と推定される相馬胤家代恵心申状(同前)には「宛給陸奥国行方郡院内村三分壱事 右地者,曽祖父相馬五郎胤顕相伝所領也,仍三男孫七入道伝領之後」とあり,院内村の3分の1は孫七(宗胤)に譲与された。同申状では,西上して京都を奪還後陸奥に下向する南朝方の北畠顕家軍を相模国片瀬川で迎え撃った北朝方の斯波家長軍に属して討死にした亡父相馬胤康の戦功を述べ,恩賞として院内村3分の1を胤家に宛給されんことを請うている。観応2年9月15日の吉良貞家施行状(同前)には「陸奥国行方郡院内村事,任相伝之文書,知行不可有相違……相馬岡田新兵衛尉(胤家)殿」とあり,当村は相馬岡田氏惣領の本拠地として,胤顕―胤盛・孫七(宗胤)―胤康―胤家と相伝され,胤家の代には庶流の所領であった院内村3分の1も併合された。貞治2年8月18日の相馬胤家譲状(同前)では「いんないの村」が,同日の相馬胤家譲状(同前)では「いんないのむらの内上内下内の田在家」が嫡子胤重に譲与された。同年9月3日の相馬胤家請文(相馬岡田雑文書/県史7)には「院内村内下之内孫三郎か息壱石三斗蒔慥渡候畢」とある。康暦3年5月24日の相馬胤繁譲状(相馬岡田文書/県史7)には「みちの国おかたのむら・いんないのむら,たゝしそしぶんをのそく」とあり,嫡子つるわかまるに庶子分をのぞいた当村が譲与された。同日の相馬胤繁譲状(同前)では3人の娘の女子分として当村内の在家3宇が,後家分として同じく在家1宇が譲与された。明徳3年2月18日の相馬胤重譲状(相馬岡田文書/県史7)でも当村などが孫つるわか丸に譲与されている。応永元年2月1日の相馬憲胤知行安堵状(同前)には「行方郡伊内村之内,岡田宮内大夫与大滝帯刀左衛門尉相論在家之事」とあり,奥州相馬氏の惣領憲胤によって相馬岡田胤久の領地が安堵されている。応永9年5月14日の相馬胤久譲状(相馬文書/県史7)では当村などが嫡子とよつる丸に譲与された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265806
最終更新日:2009-03-01




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