ケータイ辞書JLogosロゴ 猪苗代(中世)


福島県>猪苗代町

室町期から見える地名耶麻【やま】郡のうち応永11年7月,信夫・田村・岩瀬・安積【あさか】などの国人領主20人が連署し,篠川御所足利満貞に忠節をつくし,大小事につき互いに相談する旨を誓約した仙道諸家一揆契状(松藩捜古文書/県史7)に「猪苗代 参河守盛親」とあるのが初見この参河守盛親は応安4年9月5日の寄進状(新編会津所収文書/県史7)で,在家一宇を黒川実相寺に寄進している刑部大輔盛親と同一人物とみられ,さらに,永和元年11月10日のゑかく譲状(示現寺文書/県史7)で下利根河村を譲られている三郎刑部大輔も同一人であろうこの下利根河村については応永29年2月9日の蘆名盛政寄進状(同前)に「那摩(耶麻)郡内下利根河村猪苗代本知行分」と記されており,猪苗代氏の所領であったことがわかるしたがって,参河守盛親も猪苗代氏と考えられるまた貞和4年8月12日の吉良貞家・畠山国氏連署吹挙状(同前)では下利根河村は三浦盛通妻平氏(ゑかくであろう)の所領として見えているので,猪苗代氏は三浦蘆名氏の一流とみられる猪苗代氏は応永11年の国人一揆に参加している点に見られるように,初め本流蘆名氏とは独立した行動をとっていたが,室町期に次第に蘆名氏に従属するようになった模様であるしかし,戦国末期に伊達氏の勢力が会津地方に伸びてくると,猪苗代氏は蘆名氏に叛して伊達氏にくみしている江戸初期のものと推定される伊達・蘆名両家関係覚書(伊達文書/県史7)によると天正17年6月4日,猪苗代盛国は伊達政宗を猪苗代城に迎え入れ,これがため翌5日,磐梯山麓の磨上原【すりあげはら】の合戦で蘆名義広は政宗に敗北するに至っているなお「新編会津」は文治5年の奥州合戦の軍功により,三浦(佐原)義連が源頼朝から会津地方を拝領し,義連の子佐原(蘆名)盛連の長男大炊助経連が猪苗代に住し,その子孫が代々猪苗代氏を称したと伝えているまた文禄3年の蒲生高目録には猪苗代郡として,56か村・2万424石余が記されている会津地方東部,現在の猪苗代町を中心とするあたり
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265817
最終更新日:2009-03-01




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