ケータイ辞書JLogosロゴ 猪苗代城下(近世)


福島県>猪苗代町

江戸期の城下会津地方東部,猪苗代盆地に位置する耶麻【やま】郡のうち会津藩領亀ケ城の城下室町期に猪苗代氏によって築かれ,江戸期には若松城の支城となり,城代が置かれた文禄3年の蒲生高目録では猪苗代郡に属し2万425石余,うち町分として城下町1,521石余元和末期の様子は「本丸は山をかたとり,二の丸と三の丸とは平地にて土居を築き隍を廻らし,搦手は帯郭の後山の腰を掘切り空隍と水隍と二重に要害を構う元和の末までは半坂の西北より新町・本町の東南まで外郭ありて,隍をめぐらし土居ありて五門を開きしが,加藤氏の時毀ちしや今はなし,城の東北は市店にて西南は田圃なり」とある(新編会津)その後会津藩の支城として存続し,上杉氏時代は今井源左衛門・水原親憲,蒲生氏の再入封時代は関・岡の両氏,加藤氏の時は堀氏と城代が配された(県史2)城下之図には,本町・新町・古町・半坂同心町・中町・堤町・土町・社人町・九軒町が記され,さらに城下町の記述には本町に属する名古屋町が追加されている本町・新町には猪苗代川東・川西両組の郷頭が居住し,土町の北には保科正之をまつる土津【はにつ】神社がある(新編会津)享保17年の漆木改め郡別本数によると猪苗代は2万4,050本余とある(御判帳集註)寛延2年12月21日川西組三城潟村の蔵元が借米を断わったことに端を発し,翌日には西舘村・川東組金曲村でも騒動が発生した金曲村では農民が猪苗代城下に集まって気勢をあげ,隣郷の大寺村からも農民が集まり,さらに北方(喜多方)・塩川方面に波及して,1万5,000人余が若松城下へ押し寄せる強訴となった天保12年の領内地方御家人席格書には,猪苗代町に4人,川東組に4人,川西組に2人の地方御家人がおり,慶応2年には本町・木地小屋・えぼし小屋・高野・堤崎・大原・中町に10人を数えた(古川家文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265819
最終更新日:2009-03-01




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