ケータイ辞書JLogosロゴ 印野郷(中世)


福島県>棚倉町

南北朝期から見える郷名入野・飯野とも書き,「いのう」「いいの」ともいった建武二年以前新恩所領注文(白河證古文書/矢吹町史2)に「印野郷」と見え,また延元4年7月18日の伊達為景相博状に「たかのゝこほりきたかた,いのゝかうのうち,にしたかわらひ,ひんかしたかわらひ二かしよは」と見える建武2年8月北条時行の与党が長倉(現,石川郡平田村大字中倉)で蜂起した際,伊達為景の子為顕はこれを討ち,その恩賞として印野郷のうち西高蕨・東高蕨2か所を給わったこのとき為顕は親為景のはからいでこれに仁公儀村を加えた3か村と金原保筆甫村(現,宮城県伊具郡丸森町)とを結城親朝と相博している(結城大蔵文書/県史7)貞治3年4月25日の結城朝常譲状によれば「白河庄のうち……たかののこほりのうち大はたけ・ねきし・あさかは,いのうの郷・てさわ郷」などが子息政常に譲られている(結城文書)永正4年4月26日の結城顕朝書状に「飯野の公事之事」と見え,近津宮八槻別当に当地の公事は前々と変わらないことを伝えている(八槻文書/県史7)同18年11月の結城隆朝証状に「いい野十八貫所,如前々相付申候」と見え,当地が18貫文の所であったことがわかる(同前)天正3年8月14日の佐竹義久知行宛行状に「手沢之内三間,入野之内指添,以上卅貫文之所遣之候」と見える(秋田藩家蔵河東田文書/塙町史2)中通り南部,現在の棚倉町大字棚倉を中心とするあたり
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265827
最終更新日:2009-03-01




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