岩沢村(近世)
江戸期〜明治8年の村名。耶麻郡のうち。古くは加納荘に属したという。会津藩領。慶徳組に属す。村高は,文化15年の村日記(県史10下)では319石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに314石余。慶長16年8月の大地震による山崩れで集落が地中に埋もれたという伝承をもつ。化政期の家数17軒(新編会津)。神社は熊野宮,同社は源義家が後三年の役の際に勧請したと伝え(新編会津),桜本坊・岩本坊・梅本坊・他本坊・三嶋坊・峰本坊・桂林坊・杉本坊・山本坊・柳本坊・松本坊・清蔵坊の12坊があったという(矢部文書)。同社は慶長16年の大地震で倒壊し,のち本殿・拝殿を再建し,寛文年間までは仁王門に「奉造立金剛力士形像各一躯,木仏工僧仁助木図造僧果成,大檀那僧琳覚,建久6年大歳乙卯二月吉祥日始之」と書いた棟札があったと伝える(新編会津)。肝煎矢部重之が会津藩に願い出て寛政8年4月から同社の総建てかえを開始し,大工は吉田組山浦村彦右エ門を中心に工数206人,木挽は越後国稲嶋村権右エ門を中心に107工,人足138人を要して8月の祭り前に完成した。さらに寛政9年には拝殿・幣殿・鳥居の普請が行われ,費用は岩沢・見頃【みごろ】・宮在家・細屋・下三宮の5か村の寄進でまかなわれた。同年8月8日には鎮守正遷宮の行事が行われ,だし・御旗・猿田彦・先払・御ほこ・御太刀・祝箱・榊木・御幣・御供・御大押・立笠・けいこなど御供総人数80余人が5か村をまわり,それぞれの村の肝煎の屋敷前で子供たちの踊りとはやしが行われた(矢部家文書)。明治8年下三宮村・見頃村と合併して吉川村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265897
最終更新日:2009-03-01