ケータイ辞書JLogosロゴ 大内村(近世)


福島県>下郷町

 江戸期〜明治22年の村名。会津郡のうち。古くは楢原郷に属した。はじめ会津領,寛永20年からは南山御蔵入領。楢原組に属す。村高は,文禄3年の蒲生高目録では309石余,元禄4年には320石余,文化15年の村日記(県史10下)および「天保郷帳」「旧高旧領」では320石余。江戸初期から下野街道・会津西街道・南山通りの主要宿駅。古内・宮内・糠塚の3か村が集められて山本村となり,のちに大内村となったと伝えるが,大内村の名は中世以降の資料に見える。正保元年に会津藩主保科正之が南山通りを参勤交代路とし,以後延宝8年まで江戸の往復に藩主は18回通行,大内は昼食の場所であった。一般の屋敷は間口6間4尺,地坪6畝20歩に整然と割り付けられ,火除屋敷として所々に1軒分の空地を置いた。問屋本陣・脇本陣のほかに会津藩が廻米の際利用した郷蔵があった。鎮守高倉神社は高倉宮伝説があり,桜姫の墓も村北にある。ほかに別当南仙院がある。高倉神社は麦が禁忌作物であったが,延宝2年南山御蔵入奉行飯田兵左衛門が祭礼日を9月19日から5月19日に変えさせ耕作を奨励した。また飯田奉行は炭焼も奨励し若松売りをすすめた。駅所の人足役として100石を免除(貞享2年風俗覚書)。天保3年五十里湖出現によって交通量が激減したため宿駅が衰微した。元禄4年の家数66軒・人数351,馬70。この頃から宿駅を付け通しできる中付駑者側との抗争があらわれる。宝暦6年に端村沼山の水呑3人に耕地を与えるため村内の割地を行った(草高割直面付帳)。化政期の家数46軒,村南24町の端村沼山6軒(新編会津)。安政2年の家数48軒・人数268,馬53・牛6。戊辰戦争には慶応4年8月30日沼山の戦,9月1日は大内沼の戦があり,田島陣屋を引き揚げの会津側と追ってきた新政府軍側とのあいだに戦闘があり,新政府軍24人の墓がある。その後9月9日朝,大内駐留の新政府軍兵に対し会津軍佐川官兵衛のゲリラ急襲があり,新政府軍は逃散,兵糧弾薬多数を奪取した。明治4年の戸数47・人口274。同8年に五等郵便局が置かれる。若松県を経て明治9年福島県に所属。学校は明治6年に栄富小学校大内分校が開校。同20年から大内簡易小学校となる。明治17年会津三方道路の開通以後交通が衰微し,同18年内国通運会社継立所が閉鎖された。明治20年の戸数49・人口290。明治12年南会津郡に属し,同22年楢原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266094
最終更新日:2009-03-01




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