ケータイ辞書JLogosロゴ 大越村(中世)


福島県>大越町

室町期から見える村名太越とも書く田村荘のうち応永11年頃と推定される仙道諸家一揆傘連判状に「大越 宮内少輔季広」と見える(秋田藩家蔵白川文書/県史1)この一揆契約は田村一族が中核となって結ばれたもので,篠川・稲村両公方からの働きかけによって組織された永禄2年10月吉日の田村大元神社大般若経奥書に「紙漉大越村渡辺源右衛門」とあり,当地の紙を使用している(県史7)天正16年と推定される7月10日の志賀甘釣斎玄湖覚書状に「一,大越之義」と見える(伊達家文書/県史7)この年の6月から7月にかけて安積郡郡山城をめぐって佐竹義重・蘆名義広父子・二階堂氏の連合軍と伊達軍の戦いが続いていたが,この日岩城常隆・石川昭光の調停によって講和が成立し,田村荘一帯は伊達氏の支配下に入ったしかし当地については岩城氏がその領地と主張し,伊達氏と交渉が続いており,年欠8月4日の伊達政宗書状に「又太越之事も,自岩城も,重而理之旨候キ」と見える(伊東文書/県史7)その後当地と小野一帯は岩城氏の支配下となり,翌年正月7日の伊達政宗書状に「抑今度小野太越向三春ニ,手切之義前代未聞ニ候」とあり,小野・太越の領主大越紀伊を利用し,岩城氏が三春境に攻撃を仕かけている(青山文書/県史7)天正17年11月27日の伊達政宗知行宛行状写に「大越抱之事,今泉之地相除,其外近年大越知行之通進置候」とあり,大越紀伊知行の地を田村顕頼に与えている(伊達家文書/県史7)なお応永7年9月頃奥州探題斯波詮持は伊達政宗や結城白川氏に追われて当地で自殺したという(余目旧記)江戸期に上大越村・下大越村・牧野村に分村し,中通り中部,現在の大越町大字上大越・下大越・牧野あたりに比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266145
最終更新日:2009-03-01




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