ケータイ辞書JLogosロゴ 大寺村(中世)


福島県>玉川村

鎌倉期から見える村名石河荘のうち正嘉元年12月2日の北条時頼寄進状(白河風土記)に「寄進 薬師堂,免田参町事,右石川庄大寺村,建立彼堂之由,仍当村地頭給田陸丁内参町,所令奉免也」と見える村名は,須釜東福寺があることによって起こったという(地名辞書)これより前,文治5年,領主大寺光行は,源頼朝の平泉攻めの先導をつとめたといい(石川氏一千年史),石川有光の3代の孫大寺光治は,承久の乱に功があった(尊卑分脈)元亨3年,北条貞時十三年忌供養が行われた時,石河大寺孫太郎は馬一疋を納めた(円覚寺文書/相州古文書)康永2年9月,結城親朝注進状案(結城文書/県史7)に,石川大寺孫三郎祐光が親朝と行を共にしたことが見られる明徳5年7月1日の斯波詮持書下(白川證古文書)に,大寺安芸入道道悦と竹貫光貞が石河荘吉村をめぐって争っていることが見える応永5年12月25日,足利満兼は石河大寺安芸入道道悦跡を鶴岡八幡宮に寄進した(鶴岡八幡宮文書/相州古文書)文明16年9月3日の乗々院御房御教書(八槻文書/県史7)に大寺氏が白河一族となったとあり,明応5年8月4日と推定される石川一家同心状案に大寺修光の名が見られる(八槻文書/棚倉町史2)永正6年8月24日,秀栄奉書を大寺氏が受けた(同前)天正10年会津・岩瀬・田村の衆が大寺修理を討ち取ったという(元和八年老人物語)大寺城は霞が城とも称し,天正11年大寺清光の時に落城した(石川風土記)中通り中部,現在の玉川村大字南須釜の地に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266236
最終更新日:2009-03-01




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