ケータイ辞書JLogosロゴ 岡田村(中世)


福島県>小高町

 鎌倉期から見える村名。行方【なめかた】郡のうち。永仁2年8月22日の関東下知状(相馬岡田文書/県史7)に「岡田村并長田,已上田数載配分状事,右,以亡父左衛門尉胤村跡,所被配分也」とあるのが初見で,胤村の二男で相馬岡田氏祖である胤顕に当村ほか院内・大三賀・八菟・波多谷村など48町余の所領が分割譲与された。正和4年8月7日の相馬胤顕後家尼妙悟譲状(同前)では,胤顕跡の「をかたのむら」が尼妙悟一期知行ののち嫡子胤盛に譲渡された。元応2年3月8日の相馬胤盛後家尼専照譲状(同前)には「なめかたのこをりをかたのむら,このところハ,五郎たねやすそうりやうしきとしてゑいたいちきやうすへし」とあり,当村が相馬岡田惣領家が知行すべきものとされていたことが知られる。元徳3年9月26日の相馬胤康譲状(同前)では嫡男つるに当村ほかの地頭職が譲渡されたが,女子一期分がそのうちに含まれていた。建武4年と推定される相馬乙鶴丸代祐賢申状(同前)では,同3年3月に北朝方に属して本宗相馬氏・相馬庶子家などとともに小高城に籠り,南朝方の北畠顕家軍との交戦によって討死にした胤康の戦功を述べ,下総国相馬御厨内の所領と岡田村・八菟村・飯土江・矢河原・波多谷村の安堵を申請している。観応2年7月8日の吉良貞家下文(同前)では,岡田村内の田在家が胤家に返付された。当村ほかの相馬岡田氏の所領は,貞治2年8月18日の相馬胤家譲状(同前)では嫡子胤重に,康暦3年5月24日の相馬胤繁譲状(同前)では嫡子つるわかまるに,応永9年5月14日の相馬胤久譲状(同前)では嫡子とよつる丸に譲渡されている。当村は相馬氏の有力庶子家である相馬岡田氏の本拠地であった。相馬岡田氏の所領は,当村および院内・大三賀・矢河原村,飯土江村,下総国相馬郡泉などであり,本拠地の当村に城館を構えた(岡田城跡)。当村には相馬岡田氏の鎮守であった岡田初発神社がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266347
最終更新日:2009-03-01




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