ケータイ辞書JLogosロゴ 音金村(近世)


福島県>下郷町

 江戸期〜明治22年の村名。会津郡のうち。古くは古々布郷に属した。はじめ会津領,寛永20年からは南山御蔵入領。松川組に属す。村高は,文化15年の村日記(県史10下)および「天保郷帳」「旧高旧領」では333石余。加藤谷川を吹き上げる風が強く,早くから村の北西に防風林を立てていたが,延享元年端村赤高原集落火難のため,家作材料として松材200本を伐り出したところ,沖原から訴出でがあり,壇を築いた内側は伐採禁止,外側も不時入用の時に限り3坪相談して伐り出すことに村定めを行う。享和の頃の家数62軒。化政期の家数14軒,端村赤高原27軒,同沖原11軒(新編会津)。文政5年の人数283。当村は広大な山と原野十文字原とを持ち,組内の山野不足の村々から山手を取って入会させていた。山は慶長18年から落合・桃曽根・赤岩・張平・檜原・塩生の6か村から合計73石余の山手。十文字原は北部にあり東西10町・南北3町の原野で,安永元年から張平・赤岡・原・木令・和田・宮内・杉沢・塩生・中妻・本九々布・檜原・桃曽根・赤岩・落合の14か村ならびに端村から原永役を徴収して入会利用を許していた。国境の大峠を通じて下野方面と三斗小屋へ清酒・雑穀を,帰りに塩を馬や人の背で運んだ。戊辰戦争の際は,三斗小屋の戦闘をした新政府軍が村内を通過して街道へ出ている。明治4年の戸数52・人口309。産物としてトリモチ・火縄(ヒバの木の皮で製す)があった。神社は大明神社。若松県を経て明治9年福島県に所属。同20年の戸数52・人口360。明治12年南会津郡に属し,同22年旭田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266482
最終更新日:2009-03-01




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