ケータイ辞書JLogosロゴ 小野保(中世)


福島県>小野町

南北朝期から見える保名田村郡のうち建武2年10月26日の陸奥国宣案(結城文書/県史7)に「白河・高野・岩瀬・安積郡・石河・田村庄・依上・小野保等検断事,可令奉行給者」とあるのが初見で,結城親朝が陸奥守北畠顕家より仙道8郡の検断奉行に任命され,親朝は奥州の南朝方の中核となった田村荘の成立は12世紀前後と推定され,小野保もそれと同時期か鎌倉期頃には成立していたものと推定される康永2年6月に親朝は,建武2年以前の知行地の保証を条件に北朝方に帰順したが,宇津峰城・霊山城の南朝方に対する攻撃にも参加しなかったため,結城氏は貞和2年7月16日の吉良貞家書下(同前)で「陸奥国白河庄岩瀬郡小野保検断事,京都御左右之程,守先例,可被奉行之状,如件」と,奥州管領によって検断職を3地域に削減され,検断職の世襲も否定されたしかし観応擾乱によって北朝方内部に混乱が起きると,足利尊氏は結城氏を北朝方にひきとどめるために,文和元年12月17日の足利尊氏下文(熱海白川文書/県史7)では「為陸奥国小野保・安達東根等替,所充行也者」として田村荘闕所と出羽国小島荘とを結城顕朝に宛行い,翌2年正月には顕朝を親朝と同様に8郡の検断職に任命したものと推測される(同年正月13日下野守某奉書/飯野文書)応永4年5月22日の足利氏満御教書案(相馬文書/県史7)には「小野保名主国井若狭守・田原谷弾正等」が足利氏の扶持衆に合戦をいどみ,鎌倉公方の指令によって退治すべきことが命じられている結城白川氏と相馬氏・石川氏は所領をめぐり対立していたが,(正長2年か)正月29日の前伊豆守常次奉書案(角田石川文書/県史7)では「小野保事,本領之由被聞食候,追而可有御沙汰之旨,被仰出候」と,鎌倉公方足利持氏は石川持光に小野保の安堵を約しているこのような持氏の相馬・石川方への支援によって白川氏朝は鎌倉公方持氏のもとを離れ,直接幕府(義教)に保護を求めて接近して行った永享〜文安年間頃と推定される3月3日の中務少輔家持書状(遠藤白川文書/県史7)には,「小野保之内田原屋・羽出庭彼二郷之事」は岩城周防守(清隆)に返付されることになっていて,田原屋郷は周防守に返付されたが,羽出庭郷は中務少輔家持が白河殿(直朝か)と談合して知行することになったとある享徳3年7月11日の道金譲状(岡本文書/県史7)には「一,小野ほうニあかぬまミやうふ内出しを小たいら内一丁,一宇……隆しけゆつり相そゑてゆつりわたす処実也」とあり,小野保内に岩城氏の所領があったことを示している戦国期には田村氏と岩城氏の抗争の場となった田村氏は天正16年には田村清顕の女婿である伊達政宗に完全に服属した政宗は同17年11月には岩城常隆と和睦し,常隆から小野・大越を返還させているなお,慶長14年7月2日の聖護院准后令旨(青山文書/県史7)には「奥州田村六十六郷,并小野六郷」とあり,小野保以来の広域地名として用いられていたことが知られる中通り中部,ほぼ現在の小野町一帯に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266519
最終更新日:2009-03-01




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