ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲田村(中世)


福島県>古殿町

 鎌倉期から見える村名。石河荘のうち。弘長元年3月22日の北条重時下知状(秋田藩家蔵赤坂文書/鎌遺6837)に「大炊助光行与坂路八郎光信相論,石川庄川尻郷内田村事」とあるのが初見で,石川氏一族の坂路光行と伯父光信が蒲田村の領有をめぐって訴訟を行っている。承元年間に石川光盛は嫡子光重に石河荘内富益方9か村を譲っているが,嘉禎年間に至り光盛は9か村中の一部を抜取り蒲田村として光時に譲っている。その後光時は当村を子息光行に譲っており,北条重時はこの伝領関係を認め,光行の当村の領有を認めている。石河荘は当時北条得宗領で,北条氏の被官人であった石川氏はその代官として荘内諸村を支配していたのである。康永3年3月6日の石塔義元下知状(遠藤白川文書/県史3)によると,石河蒲田五郎太郎兼光が村内の闕所地を与えられている。兼光はさらに文和元年12月7日の奥州管領吉良貞家施行状(同前)で「石河庄内田村并同村内彦三郎跡在家・押野莇在家」を安堵されており,同日の吉良貞家施行状(秋田藩家蔵赤坂文書)では石河蒲田兵庫助が「田村三分壱并狐穴在家」を安堵されている。石川兼光の所領は延文6年3月29日の譲状(遠藤白川家文書/県史7)で子息義光に譲与され,その後光広,光重と伝領されたことが同文書によって確認される。光重は応永6年12月9日の足利義持御教書では「田村三分二」を還補されており(秋田藩家蔵赤坂光康文書),また応永11年頃と推定される仙道諸家一揆傘連判には「蒲田 長門守光重」と見え,当村の領主として国人一揆に名を連ねている(秋田藩家蔵白川文書)。明徳5年4月25日と応永2年8月28日の沙弥賢雄年貢請取状(奥州文書/県史7)によると「石河庄内蒲田村内三分壱赤坂村国衙御年貢」として銭1貫文が納められており,明徳5年11月15日の宗順段別銭請取状(同前)では,村内の「赤坂又太郎知行分公田壱丁八反銭」として銭900文が納められている。文安6年11月の蒲田道印書状(白川證古文書)に結城白川直朝は蒲田氏を攻め,蒲田家相伝の文書を奪い,蒲田城を破却したことが見えており,この時結城白川氏に移った文書の半数近くが「遠藤白川文書」に含まれて伝えられている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7266780
最終更新日:2009-03-01




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