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- 上野川村(近世)とは
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上野川村(近世) 江戸期~明治8年の村名武蔵国橘樹【たちばな】郡のうち下末吉台地の北部に位置し,村内を矢上川が流れる寛永10年・元禄10年とも旗本戸田氏知行,幕末には江戸増上寺領村高は,「田園簿」では「野上(ママ)村上下」と見え583石余,「元禄郷帳」には「古ハ野川」と見え487石余,「天保郷帳」537石余,「旧高旧領」では上野川村498石余なお,「天保郷帳」には享保年間の入会秣場の開発分40石余が加えられ,「旧高旧領」では当村高のほかに増上寺領分の下野川村133石余および幕府領・旗本大岡氏知行・影向寺領分の野川村210石余が記載されている明和2年の家数75軒のうち馬持ちは23軒(安藤平作家文書)天保年間では70軒(武蔵国御改革組合限石高家数附録)名主は亀ケ谷氏が勤めたと思われる「新編武蔵」によれば,江戸から5里余,下野川村と相互に入り組み,村の規模は両村合わせて東西23町許・南北10町程,家数は65軒,神社は鎮守の韋駄天社のほか神明宮があり,寺院には天台宗威徳山影向寺・同宗西蔵寺がある影向寺は行基の開山といい,古くは栄光寺と称したが,のち養光寺さらに影向寺と改めたと伝える江戸期末には堂脇のイチョウの大木とともに「影向寺のまち」と称する縁日でも知られ,近郷より集まる多数の人でにぎわった東部を中原街道が通る水田と畑地の広さはほぼ同じで,水田は矢上川の流域のほか谷にもあり,川筋ではかなりの湿田も見られた畑地は台地上やすそにのび,米・麦を中心に雑穀類などが作られた矢上川をせきとめて用水を引き,水車場も見られ,明治期に入ってからは副業として養蚕も行われた明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属同8年野川村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」