ケータイ辞書JLogosロゴ 萱津村(中世)


福島県>会津坂下町

南北朝期から見える村名蜷河荘のうち康安2年11月2日の左衛門尉基清寄進状案(新編会津所収文書/県史7)には「寄進タテマツル実相寺領陸奥国会津蜷河シヤウカヤツノ村」と見え,基清の所領であった村内の在家2宇・田3町を黒川(現会津若松市)の実相寺に寄進したことがわかるまた貞治4年11月13日の平井明秀寄進状案(同前)によれば,「萱津村一分之地頭平井次郎三郎日奉明秀」の所領であった村内の在家1宇・田1町・畠2面を,同じく実相寺の一切経輪蔵田として寄進しているなお「会津雑考」には同月日付の平井明秀沽却田畠在家坪付注文(県史7)が収められており,寄進地分として「アイノ田」「ヨモキ田」「マチ田」などの地名が見えるその後近世初期と推定される年月日未詳の諏訪神社祝分所領得分注文案(新編会津所収文書/県史7)には「かいつ 九百 米六」とあり,諏訪神社祝分の所領であったことがわかるまた天正14年正月20日の諏訪神社領収納日記(同前)には「かひつ」と見えるなお明徳2年5月13日の某判物(同前)には「大沼郡松岸諏訪田 三貫文大沼郡堺野村内五百苅 蜷河庄萱津村内五貫文」とあるが,本文書は検討を要する「新編会津」には,萱津はのち海津に改められ,さらに寛文年間頃から茅津と改称した旨が記されている江戸期には上茅津村・中茅津村・下茅津村が見え,会津地方中部,現在の会津坂下町大字開津を中心とするあたり
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7267034
最終更新日:2009-03-01




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