ケータイ辞書JLogosロゴ 北半田村(近世)


福島県>桑折町

 江戸期〜明治22年の村名。伊達郡のうち。はじめ会津領,慶長6年出羽米沢領,同8年米沢藩領,寛文4年幕府領,延宝7年福島藩領,天和2年幕府領,元禄13年桑折藩領,延享4年幕府領(佐渡奉行所支配),寛延2年幕府領,安永5年仙台藩預り地,寛政元年からは幕府領。村高は文禄3年の蒲生高目録では1,314石余,慶長年間の邑鑑では1,314石余,「天保郷帳」1,403石余,「旧高旧領」1,402石余。慶長年間の家数17軒・人数45(邑鑑)。半田山の銀鉱は古く大同年間に発見されたという(桑折町誌)。しかし中世には開発された記録が見られない。本格的な開発が始まったのは上杉氏時代の慶長年間からで,寛文年間までは隆盛をきわめた。以後,盛衰を繰り返し,大剪鋪・本磐鋪・中鋪・沢鋪・栗林鋪・勘兵衛鋪・弥平治鋪・岑鋪・待鋪・清五郎鋪・水鋪・大剰鋪・七曲鋪などが開坑された。宝暦年間頃はかなり衰え,「最早,半田銀山之義,掘所無御座」とまでいわれたが,文化年間には上質の鉱脈が発見されて盛り返し前代未聞の活況を呈した。佐渡・生野と並び称せられ,日本三大銀山の1つといわれたのはこの頃であったかもしれない。幕末から明治初期にかけては北半田村の名主早田伝之助が,その後は鹿児島の五代友厚が採鉱を試みている。伝之助は父万七とともに銀山御用達をつとめた。また心学を修め,広く郡内の農民を指導教化している。万七は安政年間頃北半田・藤田・石母田・鳥取・牛沢・東大窪新料の6か村の名主を兼帯した(半田銀山由来書/早田家文書)。江戸期を通して当村は上組・中組・下組の3組に分かれてそれぞれに村役人が置かれていたが万七のとき組分けが廃された。しかし慶応年間には村内が上組(中組を含む)・下組に分かれており,慶応2年3月の人別改帳では上組の村高893石余,家数90軒・人数486,下組の村高509石余,家数30軒・人数225となっている。「旧高旧領」で上組884石余・下組518石余。旧福島県を経て明治9年福島県に所属。同年の戸数132・人口843(二郡村誌)。明治20年の戸数180・人口1,048。明治12年伊達郡に属し,同22年半田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7267214
最終更新日:2009-03-01




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