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北町(近世) 江戸期~明治22年の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北町(近世) 江戸期~明治8年の府内城下の町名町組松末町11町の1つ松末庄屋支配に属す府内城の東南にあり,北は御屋敷,南は中横町,東は大分川に通ずる船入深川,西は善功寺に接する貞享元年の「万覚」によれば当町の南頬46間・北頬50間4尺・道幅は2間元和9年から慶安3年まで,萩原に流配されのち津守【つもり】に移された松平忠直監察のため,幕府が設置した府内監察使屋敷があった明治4年大分県に所属同8年1月現在は松末町に属す同22年以降大分町大字大分字北町となり,以来通称地名とし存続昭和20年7月16日夜および8月10日の米軍空襲により焼土となる昭和39年の新住居表示で大分市大手町3丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北町(近世) 江戸期~明治10年の町名柳川城下の1町南流して有明海に注ぐ沖端川左岸に位置する伊能忠敬の「測量日記」の文化9年10月14日の条に,「又南町・北町より初,北町右制札前に終わる,五十五間,総測一里一十一町四十三間四尺,昼休北町用達堤九左衛門」とある当町には藩の御用達がいた文禄3年稲荷神社が建立され,明治8年水天宮が合祀されて現在に至る5月の例祭には三神丸という船舞台が,川下りの船着場がある沖端のクリークを上下し,囃子と芝居が披露される明治10年稲荷町の一部となる現在の柳川市稲荷町のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北町(近世) 江戸期~明治9年の町名江戸期は三田【さんだ】城下町の1町城下の北西隅にあり,西は屋敷町,東は京口新地,北は武庫【むこ】川,南は本町に囲まれた地域明治8年までは北町東組と同西組に分かれていた安政2年以降の年寄として当町には亀屋重右衛門・波田屋利右衛門がいた(有馬郡誌)寺院は真言宗角照山光明寺同寺は三田城艮隅守護の寺として城内にあったが,のち現在地に移転したという(三田市史)明治初年~同8年三田を冠称同9年三田町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」