ケータイ辞書JLogosロゴ 国魂村(中世)


福島県>いわき市

鎌倉期から見える村名磐前【いわさき】郡のうち正応5年閏6月14日の国魂経隆遺領配分状案に「国魂太郎経隆遺領,陸奥国岩城郡国魂村,田畠在家配分事」とあるのが初見で,経隆は直営地3町を含む11町の田地と在家14宇を所有していたことがわかる(国魂文書/県史7)経隆の遺領は成隆が継承し,その子秀隆・泰秀兄弟に配分されたが,正安4年9月7日の関東下知状によると,成隆の妹の子岩間盛隆が成隆の所領配分を不満とし「弓箭兵杖」をおびて泰秀の屋敷に打ち入り,財物を掠取し住宅に火をかけ田在家を押領するという事件を起こしている(同前)建武2年7月5日の左衛門尉泰隆打渡状,延元元年4月26日の北畠顕家下文によると,行泰が国魂又太郎隆直跡を「勲功之賞」として宛行われている(同前)また暦応3年3月23日の佐竹義勝・法眼行慶連署打渡状,佐竹義勝・法眼行慶連署所領中分坪付注文によると,南朝方として上洛した国魂行泰は石清水八幡宮の合戦に敗れ北朝方に降っており,そのため従来の所領の半分は没収され,坪付注文の田地は合計2町9反となっている(同前)北朝方となった行泰は,その後吉良治家に従い宇津峯攻撃・伊達郡藤田城合戦に参加している(同前)観応3年4月23日,同年5月11日の下野守某等二人連署禁制には「禁制 岩城郡国魂村内国魂太郎兵衛尉行泰知行分濫妨事」として,「軍勢并甲乙人等」の「乱入狼藉」の停止が見られ,国魂村が吉良貞家の管領となったことを示している(同前)同年5月15日の足利尊氏御教書には「陸奥国岩城郡国魂村内,国魂太郎左衛門尉隆直跡 地頭職事」とあり,「田村荘斎藤村」の替として宛行われたことがわかる(同前)行泰の子隆秀は安積郡戸谷田(日和田)・田村荘柄久野原・矢柄城・埋峯(宇津峰)攻めなどに参加し,これらの合戦に北朝方が勝利するとかつて行泰が没収された所領半分が返付されたことが,文和2年12月4日の吉良貞家書下,文和3年2月4日の小河義雄打渡状に見えている(同前)同年10月10日の岩城隆泰披露状には行泰知行の国魂村の田在家を行泰の妹と岩崎高久新左衛門尉が同心して苅田狼藉している旨が記されている(同前)貞治5年12月9日の吉良治家知行安堵状に「陸奥国岩城郡国魂村地頭職事」と見え,国魂隆秀に当村の地頭職を安堵している(同前)しかし康安元年12月15日の吉良治家諸公事免許状には「大国魂神主山名下野守」とあり,神主職をはじめ,それに伴う岩城郡平窪・矢野目・国魂各村の神主知行分の国衙正税以下の年貢が,奥州管領府の侍所奉行であった山名下野守の掌握するところとなっていたことがわかる(同前)また国魂村は磐城国造家とも関係が深いと考えられる(県史1)浜通り南部,現在のいわき市平菅波のうちに比定される→菅波【すげなみ】
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7267309
最終更新日:2009-03-01




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