ケータイ辞書JLogosロゴ 黒川(中世)


福島県>会津若松市

南北朝期から見える地名会津郡のうち「新編会津」に,至徳元年,相模国(神奈川県)三浦氏の一族蘆名直盛が当地方を領し城を築いて鶴ケ城と称し,城下を黒川と称したとあるが,実際には応安8年4月23日の鋳造銘のある東明寺鐘銘(会津若松市)に「日本国奥州大会津黒河」とあるのを初見とする(会津雑考/県史7)ついで応永9年9月21日の信濃国(長野県)碓氷【うすい】峠の熊野神社鰐口銘に「奥州会津黒河」とある同21年11月3日に塔寺八幡宮で遷宮式が執行されたが,これに参加した人々のなかに「黒河護摩堂坊主」の名が見えている(塔寺長帳/続群30上)当時から蘆名氏の政治的中心地となっていたことは同26年に越後の小河城が黒川の兵のために落城したと塔寺長帳に見え,蘆名氏を黒川と称していたことから想像されるまたこのことは同書の宝徳3年7月15日に松本右馬允(典厩)が多々良伊賀をその在所に攻め,多々良氏は「おたかき(小高木)のたて(館)」に逃れ蘆名氏をたよったとあり,これを黒川陣と称していることからもわかるすでに小高木城下を黒川と称していたのであろう応永30年6月26日の蘆名盛政判物(新編会津所収文書/県史7)によれば,黒川諏訪社の祝(神官)が会津郡の巫女の総轄を命じられ,蘆名氏から広大な社領の寄進をうけていることから,当地は蘆名氏の発展に伴い栄えていったものと思われるまた文明13年銘の伊佐須美神社横管(会津高田町伊佐須美神社所蔵/県史7)に「黒川町・大町 佐野七郎忠重」と見え,城下の形成が進行していたことがわかるさらに異本長帳には大永4年7月13日に馬場町,同15日には大町,大永7年12月9日南町,同19日には宇都宮町がそれぞれ火災で焼失した旨が見え,城下町割が進んでいたことが判明する天文7年3月15日に大火が発生し,蘆名氏の館をはじめ松本図書・同伊豆・常世・西海枝・鵜浦・経徳・船窪・富田・栗村・須生氏などの重臣屋敷や,諏訪社をはじめ熊野社,当麻寺などの社寺も焼失,蘆名盛舜は平田石見守の屋敷,蘆名盛氏は佐瀬大和守の屋敷に難をのがれている(本塔寺長帳/磯部文書)当地は,会津全域を支配し奥州の戦国大名蘆名氏の政治的中心地になり,各地に所領をもつ重臣たちが城下に集中していたことがわかる商人の集住も多く,弘治元年正日25日の大火では大町・馬場町で蔵100が焼けたという(塔寺長帳/県史7)また元亀年間頃には,商人司に簗田氏を命じて領内の商人の統制と城下の商人街の支配を許可したしかしこの様に繁栄した黒川城下も天正17年6月5日の磨上原合戦での蘆名氏の滅亡によって衰退し,同月11日に伊達政宗が黒川城に入城した政宗は城下の整備は特に行わなかった同18年8月,豊臣秀吉の奥羽仕置により蒲生氏郷が入城,会津地方92万石の大名となり,居城地を黒川に決定文禄元年城郭の拡大と城下の整備を行い,城を鶴ケ城,城下を若松と改称した
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7267386
最終更新日:2009-03-01




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