ケータイ辞書JLogosロゴ 桑折郷(中世)


福島県>桑折町

 鎌倉期から見える郷名。伊達【だて】郡のうち。永仁5年9月13日の関東下知状に「時長相論陸奥国伊達郡内桑折郷田在家事」と見える。この下知状は伊達氏庶流の桑折氏の内紛を鎌倉幕府が裁断したもので,桑折郷内の田在家(田1町2反,在家2宇)について,桑折心円の息女藤原氏女が,兄時長に押領されたのに対し,時長は氏女の謀書であると陳述し,幕府は時長の知行を安堵し,氏女を謀書の咎に処している(伊達家文書/県史7)。元弘3年8月日の伊達道西貞綱安堵申状に「一所 桑折郷内田在家」と見え,討幕の挙兵に際して後醍醐天皇の近臣千種忠顕の手に属して活躍した軍忠を申し立て,陸奥国内桑折郷以下の所領の安堵を申請したのに対し,9月8日陸奥守北畠顕家は安堵の証判を加えている(南禅寺文書上)。当時伊達貞綱は但馬国小佐郷にも所領を持っており,但馬国に居住していたものと思われる(県史1)。その後桑折氏は北朝方となり,延文元年6月6日の足利尊氏御教書によれば,「陸奥国伊達郡桑折郷事」を伊達桑折政長に安堵している(伊達家文書/県史7)。その後天文段銭古帳に「伊達にしね」のうちとして「一,四〆百七十五文 くわをり」と見え,4貫175文の段銭がかけられていることがわかる(同前)。また天文22年正月17日の伊達晴宗知行安堵状に「伊達郡西根桑折之郷」と見え,桑折郷内の中目,桑島,山崎などが桑折貞長に安堵されている(同前)。これらのことから,桑折郷は鎌倉期以来おおむね伊達氏の庶流桑折氏の所領であったことがわかる。当郷には応永9年伊達大膳大夫政宗が鎌倉公方足利満兼に叛した際本拠とした桑折西山城(赤館・高館)がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7267483
最終更新日:2009-03-01




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