ケータイ辞書JLogosロゴ 白河宿(近世)


福島県>白河市

江戸期の奥州街道の宿駅奥州道中最南端の宿で,幕府道中奉行の支配を受ける寛永4年からは白河城の城下も兼ねる宿高4,463石余,宿並みは南北に31町半天保14年の人数5,959,家数1,285本町には本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠屋35軒があり,地子免4万8,001坪中町には問屋場1軒宿役人は問屋・町年寄・帳付・物書が各々1人,馬指・小走が各々2人置かれた宿常備人馬は25人・25匹で,うち5人・5匹が囲人馬宿の北はずれに阿武隈川があり橋渡しを行った上りは1里33町余の白坂宿,下りは月のはじめ10日間は1里32町余り小田川宿,中10日間は2里4町余の太田川宿,末10日間は2里21町余の踏瀬宿へ継ぎ送るまた,会津へ向かう会津街道(会津では白河街道)が分岐し,2里余の飯土用宿へ継ぎ送る月に4・9の六斎市が立つ(宿村大概帳・箭内家文書)寛永19年2月の定によると,駄賃銭は白坂宿まで本馬39文・荷なし25文,飯土用宿へは本馬44文・荷なし28文,木賃代は主人1人6文・馬10文であったが,翌年に白坂へ本馬49文・軽尻32文,飯土用へは本馬55文・軽尻35文と増額されている(熊田家文書)宝永4年白坂へは本馬77文・軽尻49文となり,同様に飯土用へは85文・58文,小田川へは68文・48文,太田川へは84文・56文,踏瀬へは111文・71文となり,木賃代は主人35文・召使17文・馬35文であった(白河藩記録)領域の分割に伴い,寛保2年には定助郷11か村6,136石余,大助郷17か村1万9,410石余が設定され,さらに延享元年10月には18か村1万2,232石余に改編された(西郷村所蔵文書)「白河風土記」には駅亭として「元は表町の庄屋月代わりに駅亭へ出て役を勤めしが,宝永七年より定問屋となる」と見える幕府からの地子免はなく,白河領主から136石8合の地子免を受け,助郷高1万2,232石余が指定されている(五駅便覧/箭内家文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7268198
最終更新日:2009-03-01




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