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大工町(近世~近代)


江戸期~昭和42年の町名大工丁とも書いた明治初年から明治22年までは若松を冠称江戸期は若松城下郭外北部のうち明治初年若松,同22年若松町,同32年若松市,昭和3...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7268445]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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大工町(近世~近代)

江戸期~現在の町名大正4年から昭和10年まで1~2丁目がある江戸期は米子城下十八町の1町城下の南東部,外濠の南側出口の沿岸に位置する城下東部を南北に走る山陰道に沿って南北に廷びる町人地深浦港に臨み,米子町の東の出入口に当たる交通の要地幕末期の惣間数は110間半,安政6年の調査では114間ほかに円応院小路橋まで17間元禄8年の竈数は家持45軒・借家25軒明治2年には表竈57軒・裏竈25軒,人高246人(米子市史)明治初年の戸数103・人口303(県戸口帳)江戸期は大工のほか漁師・日雇いなどが居住嘉永3年大工町目代・組頭は,当町人の渡世稼ぎであった地引網が禁止になったので,再び地引網を免許してくれるよう願出を差出した(米子市史)米子城から深浦を隔てた丘陵地に臨む曹洞宗大竜山総泉寺は,慶長年間城主中村一忠により創建され,中村氏時代の寺領100石寛永10年には会見【あいみ】郡大谷村に寺領13石余を有すのち伯耆【ほうき】西3郡の録所(宗門内の事務管理権を有する寺)となった(伯耆志)米子城下入口を守る砦の役目も果たす堅固な構築である境内には元和4年から元禄9年にかけて竹島に渡海した大谷甚吉,因幡二十士の清水千万人の墓がある隣接する曹洞宗月照山桂住寺は総泉寺の末深浦河口に近い日蓮宗常住山感応寺は身延山久遠寺の直末で,竜岳院日長聖人の開基中村一忠の菩提寺ではじめは寺領300石,のち30石となる墓地続きには独妙山超勝寺の跡があり,荒尾氏の家臣村瀬氏の菩提寺丘陵の西,中海側にある深浦神社は通称「祇園さん」と呼ばれ,祭神は牛頭天王・素盞嗚尊で,天和2年・享保10年に再建,天明7年再建の棟札もある米子城水軍の根拠地でもあった社地は東西16間・南北19間,社は方1間,祭日は6月15日・9月5日(伯耆志)明治16年頃麻布工場が建設された同21年の戸数は農業25戸・商業19戸・雑業28戸の計72戸,地方税9円余・町費17円余・申合わせ費16円余を納める(米子市史)同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属大正4年大工町1~2丁目となる昭和10年1丁目の一部が愛宕町,2丁目が祇園町1丁目となり,残余の地域と西大谷の一部が合併して大工町となる昭和6~8年にかけて,加茂川が治水対策のため開通した世帯数・人口は,大正12年179・732(1丁目109・444,2丁目70・288),昭和30年81・336,同40年91・304,同50年80・229

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大工町(近世~近代)
江戸期~昭和49年の町名江戸期は宇都宮城下町の1町(宇都宮市史)寛文・天和年間のものと思われる「下野国宇津宮城下之図」によれば,宇都宮大明神の入口より,奥州街道沿いの上河原町にかけての東西の通りが大工町と見える(県史近世1付録)江戸初期から地子免許元文年間町方書上帳によれば,名主理左衛門・文右衛門,町並みは東西長さ3町25間・道幅3間半,町家は南側37軒・北側38軒,うち本家48軒・小割家69軒,木戸4か所・番所4か所,ほかに坊式寺院として真言宗宝蔵院,天台宗安楽院・持明院・一乗院,会所坊寺院として天台宗福寿院があり,町高は51石余(県史近世1)明和8年町方書上帳には,家数79軒,この坪数1,402坪余と見える(宇都宮市史)明和2年に当町の近江屋太助,および上三川【かみのかわ】村の釜屋久右衛門・和泉屋清右衛門が,足尾銅山のうち斎藤治郎右衛門・星野治郎左衛門預りの山での銀試掘を日光目代山口役所に願い出ているまた,同時に当町年寄岡本庄兵衛から,大坊持(日光)山内の滝之入沢で鉛山試掘が行われたが,ともに経営の見込みが立たず,短期間で休山となった(県史近世6)寛政年間の諸職人諸商人留によれば,穀物屋16・干鰯屋6・鍛冶屋4・荒物屋2・薬種屋1・屋根枝屋1・車細工1・大工1・材木屋1・左官1・研屋1・麻屋1・古着屋1・たばこ入屋1が見え,石町の穀問屋以外では,当町に穀物屋が多かったことがわかるさらに,近隣農村での購入肥料である干鰯を扱う者が集中していたことがわかる(宇都宮市史)また,寛政8年宇都宮宿役馬町割覚によれば,大町組に属し,馬4疋を負担する(県史近世2)明治22年宇都宮町,同29年からは宇都宮市の町名昭和49年大通り1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大工町(近世~近代)
江戸期~昭和17年の町名江戸期は徳島城下の町人町の1つで,明治22年からは徳島市の町名となる新町川から,船場町,西新町・東新町・古物町に続く,三筋目の町で,西の眉山側は北山路となっていた貞享2年の徳島市中町数並家数によれば大工町筋は,家数123,東西3町47間半と記されている(民政資料)現東大工町には現在も家具屋が集中し,第2次大戦までは,指物大工が軒を並べる職人町を形成していたことから,江戸期の大工町も指物大工の町であったと思われる「渭津人」に当町の人数について「一家持廿七人,一借家人百七拾七人」と見え,借家人の内訳は浪人1人・女65人,残りは男という構成になっていたなお弘化3年の町年寄に敦賀屋源兵衛と元木屋大左衛門の名が見える敦賀屋は小間物商で,4代目源兵衛は文化9年に年寄役に仰付られ,文政3年には小間物屋裁判となり,寛政元年藩に冥加金を出して「小間物屋壱統」に加えられているなお「阿波志」によれば「西大工街即第一坊,大工街第二坊,南大工街即ち第三坊並在南新街之南」と見え,西大工町・大工町・南大工町があり,大工町は3丁からなっていたことがわかるこの第二坊は中大工町とも呼ばれた(徳島市史別巻)明治22年の戸数426・人口1,624,財政規模収入433円83銭・支出474円93銭,世帯数・人口は,昭和5年263・1,202,同10年281・1,272(自治五十年小史)同17年西新町1~5丁目・南新町西1丁目・西大工町1~5丁目・東大工町1~3丁目・西山手町1丁目・新町橋1~2丁目・紺屋町1~2丁目・東山手町1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名七条通大宮東入の町西本願寺寺内町の1つ町名は足利氏の旧臣水口某が西本願寺の棟梁となり当町に居住したため,あるいは紀州雑賀の工匠などが同寺とともに移住したことによるという(坊目誌)寛永14年洛中絵図に「大工町」と見える「京雀跡追」は,町内に「いひずしや」があったことを記す町内には米屋仲ケ間の米屋佐兵衛・木屋藤助,豆腐屋仲ケ間の浜屋善兵衛・藤屋亀次郎,請酒屋仲ケ間の坂本屋伊兵衛が居住また,西本願寺境内の当町に居住しながら浄土宗に属す家持として井筒屋藤兵衛ほか1名がいたまた,文政頃当町北側は西本願寺に対し米2石3斗余の地子年貢を上納していた(表処置録/村上文治家文書)江戸期,西本願寺に対し1年に1張分,550文の御挑燈料志を納めていた(寺内歳時記/村上文治家文書)寛永16年,西本願寺13世良如は,境内東北方の地に末寺の子弟教育機関として学林を創立能化職に光善寺准玄をあてる正保2年西侍町に移りさらに明治12年もと本願寺家臣下間刑部邸跡の当町内北側に移転同33年仏教大学と改め,大正11年竜谷大学と改称,現在に至る江戸期は西本願寺寺内町突抜組明治2年下魚棚5丁目を合併同2年の町組改正より下京【しもぎよう】21番組,同5年第29区と改称,同25年第29学区に編成明治12年下京区大工町,同22年京都市下京区大工町となり,現在に至る同44年の世帯数38・人口496,大正14年の世帯数62・人口327,昭和40年の世帯数57・人口362人口増減率(昭和40~50年)53.6%減...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は高松城下の1町高松城の南に位置する古くからあったとみられる職人町の1つ寛永17年の高松城下絵図にはすでにその町名が記されている寛政元年の絵図ではその東半分が桶屋町と野方町となっている文政10年山川元輔が地内に明善館を開く元輔は孫水と号し,大坂の出身で文化年間に当町に来住し,明善館で儒学と算術を教え,同年に創設された藩郷校の指導をも行った(高松市史)新井戸(南亀井町)の嘉永6年水道年賦銀上納割高控によると当町から21匁が納められ,新井戸から配水を受けたものと考えられるむかし聖徳太子を祀る太子堂が地内にあったが,のちに三番丁実相寺に移されたという(高松地名史話)実相寺は大正4年に東光寺に合併されたが,同寺には聖徳太子六才像を納めた太子堂があった(古今讃岐名勝図絵)明治8年の戸数115・人口404(梶山家文書)同23年からは高松市の町名となる同30年頃当町には煙草商1・質屋3・仕立物商1・酢商1・生魚商1・舶来小物商1・菓子商1・宿屋3が営業していた当時の讃岐鉄道高松停車場から当町までの人力車賃は40~50銭であった(繁昌懐中便覧)世帯数・人口は昭和19年末85・446,同21年末56・218(高松空襲戦災誌)同33年桶屋町の大半を,同39年野方町北半分を編入した世帯数・人口は,昭和40年174・543(男229・女314),同50年154・396(男167・女229)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は金沢城下町のうち,明治22年からは金沢市の町名もとは広く河原町と呼ばれた地域の一部町名は江戸初期から御大工集が住んだことによる元禄9年の「金沢町名書」(十二冊定書),安政年間の「御府内町名尽」ではともに地子町,文政6年の「金沢町奉行より出候町名」では地子町と門前地の入交りと見える天正12年前田利家が黒川六助を棟取とし,御大工100人余を召し抱え,城内の作業,他国へ戦に出かけた時の工事を行わせた今町・中町・修理谷坂(兼六坂)に棟取へ百歩,仕手大工へ50歩の組地が与えられて住んだその地所も大工町と呼んだ寛永8年4月,金沢大火の時,類焼し,御大工たちは犀川大工町・出大工町(片町の北方)・浅野川観音大工町(観音町)に移った寛永16年利常が小松に隠居した時,多くの大工を連れて行き,小松城築城の作業に当たらせた小松に移った大工の邸跡は民家となり,商人・職人が住み,地子肝煎が支配し,御扶持大工は54軒あり,大工頭西田氏が支配したこれが廃藩まで続いたが,明治以後,一般町人が多くなった出大工町は明治4年木念町に編入「皇国地誌」では「東北竪町ニ枕シ,西南十三間町ニ通ス弐町五拾弐間許,幅凡弐間四尺」と見える明治4年の戸数101,大正5年の戸数190・人口565昭和30年の世帯数152・人口615同41年一部が片町1丁目となる同45年の世帯数46・人口178...

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大工町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名久保田大工町・秋田大工町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ寛永年間に成立したといわれるが,慶長10年より同12年までに成立したともあり(秋田名蹟考)確定できない上通【かみとおり】町から西へ抜ける六道【りくどう】の辻と呼ばれる通りに沿い,東は中通町に隣接かつては上大工町・下大工町に分かれていた(久保田大絵図)久保田城下と土崎湊町を結ぶ通りの玄関口の役目をしていた寛文3年の間数35・家数54(外町屋敷間数絵図)茶町物・大町物以外の雑貨の市場権があった(市史)明治4年から秋田町の町名同11年南秋田郡に所属同22年秋田市の町名となる同18年の戸数103(秋田町字分戸数調)翌19年俵屋大火で全焼同22年秋田~土崎間の鉄道馬車の秋田始発の停留所があり,秋田馬車鉄道株式会社が設立された大工町~土崎間は約5kmで,大正5年に秋田軌道,同9年に秋田電気軌道と改称同11年馬車に代わって電車が開通した昭和6年秋田駅~大町2丁目間に新線が敷設され,同16年に市へ移管,市電となった同25年,土崎~秋田駅間7.3kmが全線開通したが,当町の停留所はそのまま残し,そこを終点として大工町線と呼ばれた同40年12月31日市電は廃止住居表示実施により同40年大町1~6丁目,同41年保戸野通【ほどのとおり】町の各一部となる...

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大工町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)延宝2年の館林城下町図(館林市立第一資料館蔵青山文書)によると,館林城の西,札の辻から大手門に至る道沿いの連雀町から南へ入った町で,東は片町,南は鍛冶町と接する町名の由来は大工職の居住地であったことによる(館林町誌稿)寛文・延宝年間頃と推定される館林先規次第覚書(館林市立図書館旧蔵文書)によると,当町18戸中17戸は大工職で,彼らは1か年170人の職役に従事,残る1戸は無役とある「館林記」によれば,延宝2年で萱葺家19,人数は男36・女30,馬2(県史料集2)また弘化3年の町方引渡帳(館林藩史料/館林双書)では,長さ1町7間余,家数22となっている「嘉永元年館林城下地図」には家数18なお名主役は片町名主臼井仙六が当町と小桑原名主を兼務していた明治2年の旧館林町役人が書き留めた宮杉家公用記(尾曳之跡)では,家数23うち本家16・借家7,人数86うち男48・女38「県邑楽郡町村誌材料」による耕宅地は8反5畝余町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同44年本町1~4丁目となる...

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大工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は本大工町と称し,水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名昭和42年1~2丁目,同43年からは1~3丁目がある水戸城下の西に位置する町人町「新編常陸」によると,町名は当地に多くの大工が居住し,寛永年間水戸城の外郭の濠が神崎から大工町を経て馬口労町にかけてつくられた時,町家の一部が向井町裏に移され,新大工町と称することとなったので,もとの大工町に本の字が加えられ,本大工町となったという「水府地理温故録」によれば,安永年間~天明年間頃当町出身の鍋屋新蔵という歌の名手がいて,江戸堺町の藤田新蔵の弟子となり,歌舞伎界で活躍したという天保年間の「水戸上下御町丁数調書」では戸数26当町の表通りは商店街であったが,明治以降花柳界として発展した昭和29年栄町大通りができてから当町は一層繁栄した昭和25年の世帯51・人口233(水戸の町名)昭和42~43年にかけて久保町と鳥見町・裡鳥見町・向井町・元山町・泉町・信願寺町・裡信願寺町・栄町1丁目・新大工町・寿町・砂久保町・北町・東町・木ノ折町の各一部を編入...

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大工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名土手町通上之口下ルの町南は上珠数屋町通,寛文12年洛中洛外大図では当町の西,現在の若宮町を「西大工町」,当町のあたりを「大工町」「東大工町」と記す「宝暦町鑑」以降の史料では「大工町」と記す当町東部の地は天正18年に築造された御土居(封境堤塘)のあった場所御土居は人家が稠密となったためその後壊され,土居敷は天保年間の初期まであったという(坊目誌)江戸期,東本願寺寺内町の新屋敷明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】17番組,同5年第25区と改称,同25年第25学区に編成明治12年下京区大工町,同22年京都市下京区大工町となり現在に至る明治38年4月,点灯請負および付属品販売を業とする合資会社都点燈が町内に設立同44年の世帯数131・人口440,昭和40年の世帯数48・人口168世帯数・人口の減少は,昭和2年4月5日,河原町五条・河原町七条間に開通した市電の軌道敷設工事に際し,河原町通の道路拡張が行われ,当町西側が河原町通の道路敷地となったため人口増減率(昭和40~50年)36.3%減...

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大工町(近世~近代)
江戸期~昭和53年の町名江戸期は大坂三郷天満組のうち町名は大工職人が集住していたことによる(北区わがまち)天神裏門前から北の町(宝暦町鑑)元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によれば,家数27軒,役数28,うち無役数1(年寄),年寄は中島屋庄左衛門明治2年大阪北大組,同12年北区,同22年からは大阪市北区の町名明治5年椋橋町の一部を,同6年天満天神社地などを編入天満天神の例祭に鉾流しの神事が行われるが,「摂津名所図会大成」(浪速叢書8)はそのにぎわいにつき「数百の楼船大河を埋むが如く群集す,陸にハ棧敷を設け幕打はへ金屏風を立わたし,諸侯第にハ家々の紋の挑灯をてらし,河岸にハ笧火を焚き恰も白昼に異ならず,船あそびハ三絃太鼓をはやし唱歌の声うるわしく,花火ハ星降り昇竜九天にかゝやき巴金鼈ハ水上に曲をなす,市中ハ棚車俄狂言昼夜限りもなくありて,浪華無双の賑ひなり」と記している昭和53年紅梅町・天神橋1~6丁目・東天満1~2丁目となる...

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┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

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