ケータイ辞書JLogosロゴ 滝沢村(近世)


福島県>会津若松市

江戸期〜明治8年の村名会津地方中部,飯盛山の北部に位置する会津郡のうち古くは黒川郷に属したという会津藩領滝沢組に属す江戸初期に坂本村が改称して成立村高は文化15年の村日記では669石余(県史10下),「天保郷帳」1,015石余,「旧高旧領」623石余村名は当地が東の山の中にある白糸滝の下流にあたることによるという(新編会津)端村に中島・北滝沢,金堀小屋に石盛【いしがもり】,北滝沢の小名に大杉新田がある化政期の家数は本村57軒,北滝沢26軒・石盛1軒・大杉新田4軒(同前)江戸中期頃端村北滝沢を北滝沢村として分村金堀小屋の石盛では良金を産し,慶長年間蒲生氏に貢じた金が288万両に及んだという最盛期には諸国から金を求めて集まった小屋が1,700軒にもなったが,寛文年間頃56軒,文化年間には1軒となった(新編会津)文禄4年当村は村の西約3町の地から移転した村内を滝沢海道(白川街道)が通り,滝沢組郷頭横山家が本陣であった神社は八幡宮・三島神社・諏訪神社・宗像神社宗像神社は明治初年に厳島神社と改称,弁財天をまつるので弁天堂ともいう寺院は日蓮宗妙国寺,同寺は一時白虎隊士を葬り,戊辰戦争直後に藩主松平容保父子が謹慎したところであり,妙法寺開山日什の墓があるのち白虎隊士の墓は飯盛山に移されたほかに飯盛山中腹に栄螺【さざえ】堂があり,同堂は寛政8年の建築で,六稜三層の形がさざえに似ていることから名付けられた西国三十三観音をまつった観音堂の1つである幕末期に墓料【ぼりよう】新村を分村明治4年の戸数57・人口314(若松県人員録)同8年牛ケ墓村ほか2か村と合併して八幡村となる
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7268577
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ