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- 中倉村(近世)とは
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中倉村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方南部,大沢川上流部,高倉山東麓に位置する会津郡のうち古くは楢原郷に属したはじめ会津領,寛永20年からは南山御蔵入領楢原組に属す村高は,元禄4年には120石余,文化15年の村日記(県史10下)および「天保郷帳」「旧高旧領」では120石余貞享2年の風俗帳には「当所地形高ク,秋春霜ふり申候故,諸作早物ばかり作申候,奥物一切ふさい(耕作の意)不申候」とあり,雪は10月はじめから降り,3月中旬まで消えないので麦は腐って例年半作耕作の余暇に地竹でざる・籠を作り,麻はよくできるまたワラビの切り干しを飯のかてにするとある元禄4年の家数21軒・人数105,馬12化政期の家数14軒(新編会津)天保8年には家数は7軒に減少隣村桜山村と同じく,馬背輸送の助郷,または中付駑者で生計をはかった神社は赤城神社桜山村とともにまつる三日月様は当地方の信仰をあつめている明治4年の戸数9・人口43明治8年桜山村と合併して中山村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中倉村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中倉村(近世) 江戸期~明治7年の村名上総国天羽郡のうち湊川上流域に位置する「上総国村高帳」では佐貫藩領,「旧高旧領」でも変わらず村高は,文禄3年「石高覚帳」254石,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに276石余「上総国村高帳」では家数48文政10年の農間渡世取調書によれば,農間商渡世は6軒で,居酒渡世3・絞油商1・鍛冶商1・蕎麦商1であった(川崎家文書/富津市史史料集1)明治6年千葉県に所属明治4年には,炭屋1・紺屋1など商人9(うち3は他村入稼),大工1・鍛冶職1など職人6がいた(三浦家文書/富津市史史料集1)明治7年豊岡村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中倉村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中倉村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」