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- 中嶋村(近世)とは
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中嶋村(近世) 江戸期~明治22年の村名美濃国石津郡のうち太田輪中西北部に位置する幕府領大垣藩預り地一時,上・下に分かれ,上中嶋を本村とし,下中島村・栗林村を枝郷とした(新撰美濃志・天保郷帳)村高は「慶長郷牒」476石余,「正保郷帳」488石余,「天保郷帳」「旧高旧領」585石余文化11年の当村は東西3町・南北6町,戸数72・人口302神社は神明社のほか山神2社,寺院は真宗東派中嶋寺中堤1,486間,悪水落江堀1,700間,用水路2,000間,土橋6か所農間は男女とも山稼ぎをし薪・柴刈をした(村明細帳)明治4年岐阜県石津郡,同13年岐阜県下石津郡に所属明治14年の当村は東西約4町・南北約15町,総反別115町余,戸数73・人口365学校は太田村蒙享学校に通学農船51艘物産は米約420石など(町村略誌)明治22年吉田村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中嶋村(近世) 江戸期~明治9年の村名庄内地方,庄内平野のほぼ中央部,京田川右岸に位置するはじめ櫛引【くしびき】郡,寛文4年からは田川郡のうちはじめ最上氏領,元和8年からは庄内藩領狩川通に属す村高は,寛永元年の庄内検地高辻では98石余,延享4年の狩川大堰手控(最上川土地改良区史)および「天保郷帳」ともに268石余,「旧高旧領」269石余幕末期の「弐郡詳記」では,免4ツ8分,家数27軒用水は北楯大堰分水堰の狩川上堰を利用慶安元年,最上川対岸の山寺山(現松山町)の用益権をめぐり平田郷に属する村々と狩川通に属する村々が争い,当村も連判したが,同2年敗訴に終わった鎮守は山神(現山神社)ほかに羽黒派修験金剛院明治9年,京島【みやこしま】村と改称のちに「きょうじまむら」と呼ばれるようになった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中嶋村(近世) 江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中嶋村(近世) 江戸期の村名豊前国下毛郡のうち山国【やまくに】川支流跡田【あとだ】川が山国川に合流する付近に位置する天正15年黒田領,慶長5年中津藩(のち小倉藩)細川領元和8年には上津野組手島手永に属し,村高48石余,家数11・人数26,牛3・馬1(小倉藩人畜改帳)寛永年間頃跡田村に編入か現在の下毛郡本耶馬渓【ほんやばけい】町大字跡田のうちか... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」