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- 中目村(近世)とは
「中目村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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中目村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方東部,長瀬川下流西岸に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは更級荘に属したという会津藩領川東組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では猪苗代郡に属し160石余,享保3年353石余(小林家文書),文化15年の村日記(県史10下)では353石余,「天保郷帳」317石余,「旧高旧領」318石余享保3年の家数20軒・人数91,馬11,文化3年の家数16軒・人数67,馬21(小林家文書)化政期の家数16軒(新編会津)肝煎は小檜山家の世襲鎮守は聖神社堂宇には猪苗代三十三観音第15番札所がある古跡に秋山右近某の住したという館跡があり,右近谷地と称する(新編会津)慶応4年の産物は飯篦【めしへら】(猪苗代郷土誌稿)明治元年10月の村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に帰役願を民政役所へ提出した(小林家文書)明治8年小平潟村・松橋村と合併して中小松村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中目村(近世) 江戸期~明治12年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中目村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方中部,阿賀川西岸に位置する河沼郡のうち会津藩領青津組に属す阿賀川の水害常襲地帯で,村落がたびたび移動した村高は,文禄3年の蒲生高目録では稲川郡に属し160石余,寛文9年157石余,文化15年の村日記(県史10下)では117石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに157石余化政期の家数9軒(新編会津)村内の路傍に経塚があり,これは1石1字の経文を埋めた所と伝える(新編会津)主産物は米明治4年の戸数7・人口42同8年十日町村・大添分・京出村・下京出分と合併して五香村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中目村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中目村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方中部に位置する河沼郡のうち会津藩領笈川組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では575石余,文化15年の村日記(県史10下)では676石余,「天保郷帳」683石余,「旧高旧領」471石余化政期の家数25軒(新編会津)神社は稲荷神社,寺院は真言宗観音寺明治4年の戸数24,うち寺1,人口132(若松県人員録)明治8年熊川村・亀ケ台村と合併して熊ノ目村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」