ケータイ辞書JLogosロゴ 博労町(近世〜近代)


福島県>会津若松市

江戸期〜昭和41年の町名明治初年から明治22年までは若松を冠称江戸期は若松城下郭外北部のうち明治初年若松,同22年若松町,同32年若松市,昭和30年からは会津若松市の町名上【うわ】町に属し,六日町の末に続き,北は滝沢町に接した町名はかつてこの町の住民の大半が博労であったことに由来する長5町42間余・幅5間貞享2年の町風俗習(県史24)によれば,古くは4町の1つ新町に属したが,元禄12年の惣町切支丹宗門御改帳では甲賀町博労町として8町の1つ(会津若松史3)町の設置された文禄初年には博労が多く,他所からも馬を引いてくる者があり,藩士が買馬の見たてに集まった町役も免許されていたが,馬商売が減少し,加藤氏入部の寛永4年から伝馬人足など町役を負担した馬市は寛文年間頃から貞享初年まで立ったが(文化4年風俗帳/県史24),のち行人町へ移った(新編会津)寛文5年の若松城下調書によれば竈数116,貞享2年の風俗書上帳では,米屋・酒屋・質屋・大工・塩屋・茶屋・麹屋などの職業が見える(会津若松史3)貞享2年の総屋敷数114,化政期の家数109軒(新編会津)「新編会津」には「東黒川上河原分の地雑れり」とある神社は天満宮,寺院は真言宗自在院戸数・人口は明治8年141・692(若松県地誌資料),同13年157・738(県治統計表)昭和41年現行の相生町・上町となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7269626
最終更新日:2009-03-01




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