ケータイ辞書JLogosロゴ 坂下村(近世)


福島県>会津坂下町

 江戸期〜明治10年の村名。河沼郡のうち。会津藩領。坂下組に属す。江戸期には在郷町としての発展をみた。村高は,文禄3年の蒲生高目録では稲川郡に属し1,540石余,うち482石余は荒地,文化15年の村日記(県史10下)では1,694石余,「天保郷帳」1,936石余。塔寺長帳に「文禄四年拾月廿七日坂下皆火⊏⊐,栗村・北新町・ひけ町一つゝきに此年罷成」とあり,坂下が大火で栗村の北に新たに町をひらき,栗村と一邑になったことがわかる。慶長16年の会津大地震により,従来の勝負沢【しようぶざわ】越えの越後街道が鐘撞堂【かねつきどう】越えに改修されたため,当村はその宿駅となった。元和4年会津藩から塔寺【とうでら】村問屋百姓中に出された文書によると,上りは若松城下へ3里,下りは1里6丁余で,舟渡【ふなど】・片門【かたかど】へ継送る定めであった(田中家文書)。寛永元年藩主蒲生忠郷が雀林法用寺の虎尾桜の花見に来た折,住民たちが町割を願い出て,翌2年村の南に8町24間の町割が施行され,東側から上町【かみちよう】・中町【なかまち】・下町【しもちよう】が成立した(町割永宝記)。寛永3年3月の覚によると,4・9の六斎市が開かれ,特に1月14日は初市でにぎわい,市神が遷座されたという(田中家文書・新編会津)。市の開催により,以前に市が開かれていた青木村に米50俵の補償,町割御礼として藩へ32石余の上納が定められた。初市は現在も継承され,特に裸で行う大俵引きは有名。貞享元年の御検地御竿入坂下水帳によると家数212軒,享保3年の坂下検地帳では家数382軒,化政期の家数399軒(新編会津)。天保12年の坂下村検地帳では家数412軒で,矢師・鍛冶・鍋・馬苦労・茶屋などの職商人が見える。村内の構成は上町・中町・下町および新町・茶屋町の5町からなり,幕末には新々町・鉄砲町が追加された(会津坂下町史)。明治4年の戸数537・人口2,693。神社は諏訪神社ほか。寺院は曹洞宗法界寺。戊辰戦争の娘子隊長中野竹子の墓がある。定林寺は,もと高寺36坊の1つ定林坊で,建久年間に定林寺となり,天文年間に曹洞宗に転宗したという。そのほか,真宗大谷派光照寺・浄土宗貴徳寺・同光明寺がある。東部に西(最)明寺渡しという阿賀川の渡船場があった。寛政年間頃から地場生産物として加工製造業が起こり,各種の株仲間が組織された。産物は,坂下煙草や,幕末の薬用人蔘・酒・味噌・醤油の醸造,菜種搾油など。なかでも坂下煙草は江戸で好評を博し,藩ではタバコ運送に特別の取扱いを命じていた。酒・味噌・菜種油は南山御蔵入領および津川町方面に移出し,藍玉は会津木綿織の発展を促した。また坂下付近は当地方における米の主要産地で,米を南山御蔵入領・金山・柳津・野沢方面の山郷に売り出し,山郷の麻・麻織物・紙・ぜんまいなどを集荷して他領に移出していた。上町は,村の東端にあたり,村高は「旧高旧領」で422石余で,家数は貞享元年99軒,天保12年147軒・人数114,明治4年の戸数210・人口1,050。中町は,村内の中央に位置し,村高は「旧高旧領」で526石余で,坂下・牛沢両組の代官所や郷頭屋敷などが置かれ,家数は貞享元年42軒,天保12年57軒,明治4年の戸数108・人口568。下町は,村の西端に当たり,村高は「旧高旧領」で111石余で,家数は貞享元年71軒,天保12年には新町分も含めて166軒,下町の肝煎は新町・新々町の肝煎を兼帯し,明治4年の戸数218・人口1,067,同8年発田分【おきたぶん】を合併した。茶屋町は中町より北にあり,北方に社倉1,坂下組の蔵2つが置かれ,蒲生氏の別荘が貞享年間まであった(新編会津)。新町は元禄7年に町割を願い出て,翌8年に成立した。若松県を経て明治9年福島県に所属。同10年横古【よここ】村と合併して坂下町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7269774
最終更新日:2009-03-01




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