ケータイ辞書JLogosロゴ 坂下宿(近世)


福島県>会津坂下町

江戸期の越後街道(別称会津街道・会津通り佐渡路)の宿駅慶長16年の大地震で越後街道の勝負沢峠が通行不能となり,代わって鐘撞堂峠を開削して本道としたため,坂下村が宿駅に取り立てられた町割永宝記によると寛永元年3月,蒲生忠郷が花見に来たおり,村役人が新しい宿駅聚落の町割を願ったと伝える翌寛永2年に村の南に新しく町割を実施し,宿駅の代償として同3年に六斎市が開かれた(新編会津)町割の町並みは8町24間,宿内の道幅を5間とし,中央に用水路を設けた蒲生氏から与えられた市開催の条件は3里四方の市立ての禁止,市の値段は問屋で定めること,売買は帳面に付けること,市は4・9に開く六斎市であった(田中家文書)そしてそれまで市が開かれていた青木村(旧越後街道沿いにある)へ毎年米50俵の支払いと,町割の礼として蒲生氏へ32石8斗9升余の上納などが義務づけられた(青木村慶長記・町割永宝記)加藤氏時代の寛永9・11年にも坂下市に対する保護が加えられている(田中家文書)元文6年の記録には町割当時の家数216軒とあり,元文6年に荷宿に対しての訴訟があったときには,荷宿65人・荷出し115人・小売人196人を数えて計376軒に増加し(田中家文書),化政期の家数は399軒(新編会津)元和年間の記録には下りは方門および舟渡村へ継ぎ送り,塔寺・坂下間の駄賃は15文とあるが,寛文9年には18文,元禄3年には19文5分,宝永4年23文と変わっている(田中家文書)化政期には上りは2里35町余の若松坂下,下りは21町余の塔寺宿へ継ぎ送り,ほかに下野【しもつけ】街道へは2里32町40間余の高田宿へ継立てた(新編会津)享保年間の下り商荷物は年間1,400〜1,500駄に及んだ(坂下町史)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7269777
最終更新日:2009-03-01




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