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- 堀ノ内村(近世)とは
「堀ノ内村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 堀ノ内村(近世) 江戸期~明治8年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 堀ノ内村(近世) 江戸期の村名魚沼郡のうち貝野村6か村の1つ信濃川左岸地名は中世豪族の居館堀之内だったことに由来する元和8年宮中村との境界争論の文書が初見(藤田家文書)はじめ高田藩領,天和元年からは幕府領村高は,「正保国絵図」87石余,「天和高帳」では貝野村の一部,「元禄郷帳」115石余天和2年検地では田畑屋敷合わせて反別14町余,のち宝暦6年新田検地で新たに3町余が打ち出された元禄7年改村鑑によれば,家数12(本家12・組頭1・寺1)・人数179,馬26鎮守は八幡社・天神社寺院は曹洞宗慈眼寺善光寺街道西通りが通っていた耕地の一部は信濃川沿いにあり,たびたび水害により流亡した川漁が盛んで鮭・八ツ目役銀を年々上納した庄屋は天和年間以降交替制で,堀之内村長百姓も時々貝野村庄屋を勤めた江戸中期以降は貝野村の一部となったと思われるが(天保郷帳),その後も独立して扱われることがあった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 堀ノ内村(近世) 江戸期~明治12年の村名頸城【くびき】郡のうち高田平野中央部,関川支流飯田川左岸荻野村の南にあたる村名の由来は,環濠屋敷であったことによるというはじめ高田藩領,天和元年からは幕府領村高は,「慶長国絵図」では堀内村75石余,「正保国絵図」98石余,「天和高帳」「天保郷帳」ともに138石余中江用水域の水田農業地帯数十町歩の地主で,酒醸造・醤油醸造業を営んだ豪農芳沢家は,明治・大正・昭和3代にわたる外交官芳沢謙吉の生家である神社は諏訪社明治12年下堀之内村と改称,あわせて中頸城郡に所属... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 堀ノ内村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」