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本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下大岡の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える町人町の助任町北端から北へ,吉野川南岸にまでいたる町筋文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば,右側には山田武五郎(400石)・山本兵次郎(150石)・笹田源五(152石)ら7名,左側には興源寺のほか本庄又兵衛(11石)・広瀬真二(11石)・梯平太夫(102石)・箕形台助(250石)・原安左衛門ら11名,計18名の藩士屋敷があった現在の助任本町の一部にあたる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下寺島の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える町人町紙屋町の東にある家老稲田氏の屋敷から,西へ,武家地出来島と寺島の間に架かる出来島橋までの町筋文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば,蜂須賀八之丞(4,000石)・樋口内蔵助(1,500石)・岩田七左衛門(1,300石)ら,1,000石以上の高禄藩士の屋敷が多く見られる現在の寺島本町東・寺島本町西の各一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下出来島の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える武家地寺島との間に架かる出来島橋から少し北へ進んだあたりから,西へ,新町川対岸田宮村の焔硝蔵への渡し場までの町筋文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば,林伊賀(1,300石)・津田監物(800石)・大津典膳(500石)・増田勘作(400石)ら高禄の藩士屋敷が集中していた現在の出来島本町の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下住吉島の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える武家地福島とつなぐ住吉島橋から,北へのびる町筋当町の北は,武家地常三島とをつなぐ渡し場となっていた文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば,広田兎官太(250石)・一条栄太郎(150石)ら100石~400石の藩士の屋敷があった現在の住吉の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下前川の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える前川の北部,新町川沿いから東へ,末広丁までの東西の町筋南は土手ノ丁文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば,100石~400石の藩士25名と10石未満の藩士4名の屋敷があった現在の中前川町・北前川町の各一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下福島の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える住吉島側から南へ2筋目の町筋東は境丁,西は袋丁文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば,蜂須賀一学(1,011石)・森甚五兵衛(2,413石)ら重臣の屋敷があった現在の福島の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の中津城下の町名金谷辺と称された南郭外の下級藩士の組屋敷地群の中央を南北に通じる道の両側奥平氏時代59町の1つ金谷は古の大江岡の地である真言宗光明院は慶長元年の創建で,今は峯中氏の邸内にある現在の中津市中津地区の通称金谷本町... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
本丁(近世) 江戸期の町名徳島城下常三島の武家町の1つ文化9年の島々丁名改目録に見える南浜側西部から北へ,北ノ丁までの町筋東は伊勢丁,西は熊野丁200石~300石の中級藩士が居住していた現在の中前川町・南前川町の各一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」