ケータイ辞書JLogosロゴ 三橋(中世)


福島県>塩川町

 戦国期から見える地名。耶麻【やま】郡のうち。塔寺長帳(続群30上)の明応9年の条に「明応九年庚申正月十二日ニ,上意にて中野たてへおしよせられ候。ほとなくおち候。同十四日ニうるし(漆)へよせんとミはし(三橋)へ御こへ候」と見え,蘆名盛高が松本対馬を中野館に攻め,漆村の綱取城に逃れた対馬を追って当地を経て漆へ出兵している。文亀2年12月16日三橋氏らは蘆名氏に追放されたが,翌3年4月18日・24日伊達尚宗の支援をえて会津へ攻め入り追い返されている(塔寺長帳)。永禄12年6月22日の三橋盛吉請文(新編会津所収文書/県史7)によれば三橋盛吉と常世氏が山の境界について相論したが,佐野・富田藤六・松本左馬助・七宮杢助・同平兵衛の斡旋によって和解した。天正17年6月5日,前日に磨上【すりあげ】原の戦いで蘆名義広を破った伊達政宗は金川・三橋へ出動している(天正日記)。南部にある館跡は加納盛時の孫三橋太郎義通が築いたとされるが,14代盛茂にいたって天正17年6月5日磨上原の戦いに敗れた蘆名義広に従って黒川城(会津若松市)へ退いたと伝える(新編会津)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7270367
最終更新日:2009-03-01




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