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- 村岡郷(中世)とは
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村岡郷(中世) 南北朝期から見える郷名遠江【とおとうみ】国城東【きとう】(城飼【きこう】)郡笠原荘のうち暦応2年2月27日,右衛門尉高行が遠江国笠原庄一宮高松社に社領として「笠原庄村岡郷内田壱町〈収納使田字町坪〉」を寄進しているのが初見(中山文書/県史料4)蔵泉寺所蔵大般若経奥書によれば,至徳2年に笠原荘村岡郷内西方の興恩寺において大般若経の一部が書写されている(蔵泉寺文書/県史料4)この村岡郷西方は,戦国期今川氏の家臣興津氏の所領で,大永4年・天文3年・天文11年には今川氏からその知行を安堵されている(興津文書/県史料2)しかし興津氏の支配も安定したものであったとはいえず,天文20年の今川義元より発給された裁許によれば,村岡東方を領すると称する斎藤六郎衛門との間で境相論が起こっているその結果,同地内浜野村辺の砂地に関して,田畠に開発した分においては東西両方の兼帯とし,双方立ち合いによって支配すべきことが決められた(同前)これによって遠州灘に面する浜野の開発が進んでいたことがわかるその後,今川氏の没落,徳川氏の遠江進出に際して,当郷は小笠原氏の領有に帰し,天正2年には小笠原信興によってさきの笠原荘内高松社の神領,村岡分1町が安堵され(中山文書/県史料4),さらに天正5年,やはり信興によって「城東郡笠原庄村岡東方増分方今泉名」内2貫文の地が富士大宮に寄進されている(旧正鎰取鎖是氏文書/県史料2)郷内には大坂・浜野を含むので(興津文書/県史料2),現在の大東【だいとう】町大字大坂・浜野の付近に比定されるが,詳細については不明 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
村岡郷(中世) 戦国期に見える郷名諏訪郡のうち永禄9年閏8月25日の武田信君等奉書案で,旧来通りの御射山祭の大祝の宿の造営を命じた6か郷のなかに「村岡之郷」が見える(金子文書/信史13)また永禄9年9月3日の諏訪社上社造営再興次第では,玉尾社の宝殿・瑞籬・鳥居と柏手の宝殿・玉垣・鳥居の造替役銭の負担地として「諏方郡山浦之古田・長田・村岡」と見える(諏訪大社文書/同前12)なお中世のものと推定される年月日未詳の「十三所造宮」「上中下十三所造宮」に,玉尾社の造営について同様の記載が見られる(守矢家諸記録類/諏叢26)当郷は江戸期の上古田村・下古田村を中心とする山浦に含まれ,また現在の茅野【ちの】市豊平の上古田に「村岡坂」「村岡平」,下古田に「村岡」の小地名が残ることから,現在の茅野市豊平付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」