ケータイ辞書JLogosロゴ 矢河原村(中世)


福島県>原町市

 鎌倉期から見える村名。行方【なめかた】郡のうち。正和4年8月7日の尼妙悟〈胤顕後家〉譲状(相馬岡田文書/県史7)に「ゆつりあたうるさうまの五郎たねあきのあと……やかわら⊏⊐ちとうしきの事」とあるのが初見で,奥州相馬氏の有力庶子家相馬岡田氏の祖胤顕の後家尼妙悟から嫡子胤盛に次男孫六(胤兼)分を除いて,当村の地頭職ほか3か所の所領が譲与された。建武2年以降相馬氏は北朝方に属し,岡田氏は相馬氏惣領重胤以下大悲山氏・武石氏などとともに陸奥守兼奥州総大将斯波家長に従った。建武4年と思われる年月日欠の相馬乙鶴丸代祐賢申状(同前)には「欲早重以御誓状預御注進,施弓箭面目……矢河原」とあり,相馬泉五郎胤康の建武3年4月の相模国片瀬川に於ける南朝方畠山顕家軍迎撃の戦で戦死した戦功などを述べ,当村など8か所の所領の安堵を申請している。貞治2年8月18日の相馬胤家譲状(同前)には「相馬胤家か重代本領たるあいた,嫡子胤重ニゆつりわたす所領村々数事……谷河原」とあり,当村など10か所が胤重に譲渡された。永徳元年8月17日の石橋和義施行状(相馬文書/県史7)には「矢河原村半分等事」とあり,相馬氏惣領憲胤に宛給され,当村の半分は相馬氏の所領となった。応永2年10月21日の相馬憲胤譲状(同前)には「陸奥国行方郡内福岡村・矢河原村〈付狩倉山〉……右此於村者,寿福寺領置預也」とあり,嫡子胤弘に当村など4か所の所領が譲渡された。当村などが鎌倉の寿福寺領となった時期は不明であるが,鎌倉後期の相馬領内への北条一門の勢力浸透が寿福寺領化の背景であったと推定される。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7270614
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ