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- 屋敷村(近世)とは
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屋敷村(近世) 江戸期~明治10年の村名会津地方中部,赤沢川上流に位置する大沼郡のうち古くは尾岐郷に属したはじめ会津領,寛永20年からは会津藩領高田組上に属す村高は,寛文5年の高田組万改帳(会津風土記風俗帳1)では172石余,文化15年の村日記(県史10下)および「天保郷帳」「旧高旧領」では175石余村名は,古くは松本氏の船岡館があり,家臣も住したことによるという(新編会津)端村に天神堂(上屋敷)がある本村は下屋敷とも称した寛文5年の家数は下屋敷12軒・天神堂11軒(高田組万改帳)化政期の家数は本村の下屋敷7軒,はなれて一区をなす新屋敷があり3軒,天神堂10軒(新編会津)元和元年僧玄照が天台宗正法寺を再興した明治4年の戸数17,うち寺1,人口95(若松県人員録)若松県を経て明治9年福島県に所属翌10年杉内村と合併して杉屋村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
屋敷村(近世) 江戸期~明治9年の村名出羽国由利【ゆり】郡のうち屋鋪とも書く(村高帳)鮎【あゆ】川上流沿岸に位置し,由利町西沢字上屋敷・下屋敷に当たる慶長7年~元和8年最上氏領,同8年本多正純領,同9年から本荘藩領元和8年滝沢兵庫頭知行地のうち鮎川郷屋敷村7,596束苅(90石余)と見えるのが初見(滝沢伝来記など)「正保国絵図」,元禄11年「村高帳」には当高105石余とある安永6年当村は27戸であった(鮎川村郷土史)「天保郷帳」では221石余とある村鎮守は春日社東由利原・西由利原高原に近く山林原野に恵まれる明治9年二子【ふたご】村・田代村の2か村と合併して西沢村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
屋敷村(近世) 江戸期~明治7年の村名美濃国石津郡のうち地名の由来は当地に伊勢屋敷があったことによるという(養老郡志)はじめ多良【たら】村のうち,江戸中期分村独立する幕府領村高は「元禄郷帳」85石余,「天保郷帳」80石余維新期一時多良村985石余に含まれる(旧高旧領)明治4年岐阜県に所属同7年西山村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」