ケータイ辞書JLogosロゴ 赤須村(近世)


茨城県>下妻市

 江戸期〜明治22年の村名。はじめ常陸国河内郡(西河内郡),元禄15年からは真壁郡のうち。元禄年間は旗本佐野氏・三枝氏の相給,幕末期は幕府と旗本大河内氏の相給。村高は,「元禄郷帳」380石余,「天保郷帳」「旧高簿」ともに404石余。文化14年の幕府領の宗門人別帳によれば,村高403石余,うち67石余死潰分,52石余越石,283石余百姓持高,家数25軒,人数94,無住の大光寺および寮1軒などがある(関家文書)。その後飢饉と疫病のため,天保初年には,戸口が半減。天保5年内地産米麦に依存し飢饉下の食糧難に悩んで内地への出百姓を嘆願していた八丈島から,菊池忠兵衛正智に引率された16戸が入植したが,そのとき旧来の在地百姓は15戸であった。入百姓は気候不馴れの上に,さらに打ち続く飢饉と疫病に襲われ,逃散が続出した。忠兵衛は私財を投じて救済に尽くしたが,居宅まで手放したという。寺社は真言宗大光寺・十二所明神。大光寺は無住が続き,明治初年廃寺となる。村民は天保年間以前から隣村桐ケ瀬の曹洞宗正法寺の檀家。明治8年開校の赤須小学校は,数年にして桐ケ瀬の小学校に合併された。明治8年茨城県,同11年真壁郡に所属。明治22年上妻村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271121
最終更新日:2009-03-01




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