ケータイ辞書JLogosロゴ 麻生(中世)


茨城県>麻生町

 平安末期から見える地名。行方郡のうち。「行方玉造系図」に,「行方祖」である行方平四郎忠幹の5人の孫が,それぞれ平賀・小高・島崎・麻生・玉造の姓を名乗っている。平安中期以来,行方郡は常陸大掾氏一族の支配するところであったが,平安末期〜鎌倉初期の頃,大掾氏の一族である行方氏のうち,安幹がはじめて麻生の姓を名乗った。当地は麻生氏の本拠地と推定される。同系図には安幹について「行方麻生城主」と注記が見える。文治6年3月日の鹿島大神宮神官等解に「行方郡内神領本納・加納・麻生等」と見え,摂政政所裁を得て,鹿島社大禰宜中臣親広が知行すべきとする数か所の中に麻生があがっている(鹿島神宮文書/県史料中世I)。こうした動きは,麻生などの地で,その知行・沙汰をめぐり,鹿島社と地頭との抗争が起こっていたことを示すものであろう。建久2年11月日の摂政前太政大臣家政所下文には,大禰宜親広と地頭行方景幹との争いの経緯をみることができる(同前)。親広はこののち正治2年12月19日大禰宜職ならびに麻生などの所領を嫡子中臣政親に譲っている(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世I)。承元2年7月5日の常陸国留守所下文には,麻生が大禰宜中臣政親の領掌すべきところとして見えている(鹿島神宮文書/県史料中世I)。康永2年正月9日に書写された鹿島神宮領田数注文案には,「麻生十二丁六反六十歩」と記されている(同前)。嘉元田文には「麻生十二丁六反六十歩」と見える(所三男氏所蔵文書)。また,応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文に「あさうの津,麻生知行分」と見える(香取文書/千葉県史料)。文明2年6月10日の旦那売券案によれば,麻生など行方郡および鹿島郡の数か所にかかわる旦那職が売買されている(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書)。この文書では鹿島社宮中を除く旨を記している。天正19年,佐竹義宣は国中の豪族15人を常陸太田に招き,これを謀殺した。「行方玉造系図」には「佐竹義重(義宣カ),行方三十三館将士を誘殺す」とあり,麻生における大掾家に連なる勢力の支配は終わった。慶長4年5月9日の廊之坊(潮崎稜威主)諸国旦那帳に「常陸国 佐竹七郡一円」の文言が見え,これに属するものの1つとして「あそう」を記している(熊野那智大社文書)。なお,当地の麻生城は,前方に霞ケ浦,周囲には河川をめぐらして自然の水濠とした平城で,現在,土塁・濠・本丸跡が残る。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271202
最終更新日:2009-03-01




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