ケータイ辞書JLogosロゴ 足高郷(中世)


茨城県>伊奈町

 鎌倉期〜室町期に見える郷名。常陸国河内郡のうち。弘安田文に「足高 一丁八段大」と見える(税所文書/県史料中世)。文安3年2月18日の憲景譲状に「河内郡遠山郷并足高郷・浜田村・同〈かんのう村・はまたの村〉之事者,憲景当知行地也,雖然足高・浜田両所事者,今度依大乱之陣労仁,大越左京亮方江永代に売渡所也」と見える(臼田文書/県史料中世)。憲景(長尾氏か)は実子がないので当郷を含む知行地10数か郷村などを縁者にあたる臼田藤四郎政重に譲っている。ただし,永享の乱の功績により,大越左京亮に与えられているので,足高と浜田の両所は,実際には,臼田氏と同様に信太荘山内衆の一員である大越氏の支配下に置かれたものと思われる。その後,当地方に勢力を拡大した岡見氏が,岡見・牛久・谷田部などとともに,足高も拠点の1つとした。岡見氏は天正年間に入ると佐竹氏と結ぶ下妻の多賀谷氏の南進策に対抗し,小田原北条氏と結ぶが,天正15年には,多賀谷重経によって攻略されてしまう。その間の様子は,「東国闘戦見聞私記」や「東国戦記実録」などの戦記物のほか,慶長8年6月20日の野口豊前覚書の中に,「一,(天正十四)九月廿四日,あたかにて,町さし入のはしお,内よりはしいたお引おとし申所お,我々参候て,……一,(天正十五)あたかと申所ニ而,つつみお切申候ニ,あたか衆と出合,やり御座候ニ,味方おくれニ成申候て,たかやしなのと申物」と見える(常総遺文/結城市史)。また,年未詳の実報院諸国檀那帳に,「一,常陸国……一,あたかやたべ」,慶長4年5月9日の廊之坊諸国檀那帳に「一,常刕国……あたかやたべ」と見え(熊野那智大社文書/広島県史),熊野の先達の活動と熊野信仰の一面を知ることができる。なお,当地は文禄3年の太閤検地を機に筑波郡に属す。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271208
最終更新日:2009-03-01




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