ケータイ辞書JLogosロゴ 阿波崎(中世)


茨城県>東町

 南北朝期から見える地名。常陸国東条荘のうち。建武5年10月日の烟田時幹軍忠状に,「其後阿波崎城罷向之処,所々御敵等為後攻引率多勢寄来之間,馳向致散々合戦打散御敵之処,阿波崎城令没落訖」と見える(烟田文書/大日料6-5)。北畠親房が海路を経て東条荘に着いたのに対し,鹿島郡の烟田時幹は,新堀・鳥栖・富田らの郎党を率い,同族の鹿島幹寛や宮崎幹顕らとともに,北朝方の佐竹氏の軍勢に加わり,建武5年10月5日北畠親房に味方した神宮寺城を攻め落とした。その後,北畠親房に味方する周辺の人々が,阿波崎城を救援する動きがあるというので急ぎ阿波崎城を攻め落としている。東条荘における拠点をなくした北畠親房は,霞ケ浦を渡り,小田城に敗走する。阿波崎城跡は地内の字天神台にあり,県史跡に指定されている。応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文に「東条庄内一方,阿波崎津」および,「あはさきの津,東条能登入道,一方難波知行方」と見える(香取文書/千葉県史料)。現在は干拓が進み一面の水田となっているが,古くは霞ケ浦に臨む港としても知られていた。なお,当地の字北須賀にある満願寺は,天平12年行基の開基といわれ,当初は阿波崎字中妻にあり,境内の地蔵堂にある北条政子寄進の延命地蔵尊はもと阿波崎字堂谷に創建されたが,永正3年伊佐部の長慶寺が一時廃寺となった時,当寺に移築されたもの。本堂は天正18年の戦火を受けるが,元禄4年音海が中興したと伝える(東村郷土誌)。同寺には文禄4年2月28日の蘆名盛重印判状が現存し,「不動院法令之砌,其座相定候」と見え,天正18年から慶長7年まで当地方を支配した蘆名盛重が,文禄の役出陣の際,祈祷に精誠した功績に対し,不動院(江戸崎町)における法会の際の満願寺住持の席次を決定した旨を伝えている。また,慶長7年11月25日には,徳川家康から満願寺領として,東条荘内に20石の朱印地を与えられている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271222
最終更新日:2009-03-01




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