ケータイ辞書JLogosロゴ 新宿村(近世)


茨城県>常陸太田市

 江戸期〜明治22年の村名。常陸国久慈郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」318石余,「元禄郷帳」356石余,「天保郷帳」434石余,「旧高簿」436石余。「水府志料」によれば,大里組に属し,戸数30,村の規模は東西約8町50間,南北約20町10間。「新編常陸」では,天保13年の検地で田畠45町8反余・分米432石余,社寺は上諏訪明神・下諏訪明神・日蓮宗曼荼羅寺。日蓮宗久昌寺は延宝5年徳川光圀が生母の谷氏久子の冥福を祈るために創建。その後光圀は学寮の規模拡大を計画し,元禄8年には3,000人の僧を擁する大殿堂となった(常陸太田市史)。当村の西山には徳川光圀が隠棲した西山荘がある。光圀は元禄4年西山荘に移り,同13年没するまで住し,家老大森典膳・小姓頭佐々宗淳と医師数人のほか物書や下人などの60余人が配属された(水戸市史)。光圀は同所で「大日本史」草稿の修訂を行い,訪れた学者・文人と風雅の会を催したり,久昌寺の日乗など近隣の古寺・古老に親しんだという(同前)。没後の元禄14年西山荘は太田代官所の支配下となり定番1人が置かれたが,宝永元年に定番が廃され,同5年松波勘十郎の財政改革によって庭園なども破壊されて新たに小庵が建てられた。享保元年小庵は恵日庵として久昌寺管理下となったが,以後焼失再建などを経て天保13年の藩政改革で恵日庵は廃されて西山旧跡として保存された(同前)。明治4年茨城県,同11年久慈郡に所属。明治22年誉田【ほんだ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271274
最終更新日:2009-03-01




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