ケータイ辞書JLogosロゴ 安食村(近世)


茨城県>霞ケ浦町

 江戸期〜明治22年の村名。常陸国新治郡のうち。はじめ佐竹氏領,元禄年間・幕末期ともに水戸藩領。村高は寛永12年「水戸領郷高帳」では柏崎・岩窪とともに1,722石余(ほか新田44石余),「元禄郷帳」1,432石余,「天保郷帳」1,486石余,「旧高簿」1,400石余。助郷は加助郷。年貢米を水戸藩領では当村の三ツ谷・高賀津・小津および柏崎村・田伏村から小川へ運んだ。明和3年刊「不言集」にはじめて当村と有河村の俳人の名が見える。当村出身の竹内延豊(其白)は草分けで中心的役割を果たし,同じく竹内延猷(一兆)は天保8年「俳諧今七部集」を出した。一兆は天狗党首唱者の1人の竹内百太郎の父である。元治元年天狗党の筑波山挙兵に際し,当村出身の竹内百太郎は藤田小四郎と宍倉村出身の岩谷敬一郎とともに潮来【いたこ】遊郭において挙兵の相談をし,軍資金の不足分を負担した。百太郎は天保2年富豪で郷士でもある竹内家に生まれた。家業は醤油醸造や秘薬「神応丸」を製造していた。百太郎と天狗党でも行動をともにした太宰清右衛門は,千葉周作の門で剣の修行をしていた時に知り合ったといわれる。奥州保原の絹糸真綿商人で,水戸藩における国防尊重の気風に目をつけ,武具整備のための鎧の縅用などの絹糸を一括納入する御用達になることを考えるが,手続の楽な郷士身分となり,竹内家の分家として当村に住居を構え天狗党決起の際,百太郎とともに参加した。太宰は元治元年宍倉村の杲泰寺で自殺。百太郎は斬死(出島村史)。寺院は真言宗福蔵寺・地蔵院,神社は大宮明神(新編常陸)。明治8年茨城県,同11年新治郡に所属。明治10年安食小学校創立。同20年養蚕巡回教師の指導を受けた。明治22年安飾村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271317
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ