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- 飯岡郷(中世)とは
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飯岡郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名常陸国信太【しだ】荘のうち元徳3年5月27日の関東下知状に,「常陸国信太庄雑掌定祐申年貢条々……一,同庄内飯岡郷等役事,右,地頭近江兵庫助政親同年分銭拾壱貫五十文対捍之由云々」と見え(東寺百合文書/鎌倉幕府裁許状集),嘉暦4年の文書の抄録に,「常陸国信太庄内若栗・飯岡郷・安戸郷等」と見える(東寺古文零聚)信太荘は文保2年の後宇多上皇の院宣により,東寺に寄進されたが,数年後,東寺の雑掌定祐は,対捍されている荘内各郷からの年貢納入を有利に行うべく鎌倉幕府に訴訟を起こした元徳3年の文書から,飯岡郷の地頭は北条氏の一族と思われる近江兵庫助政親であったことが知られ,年貢は11貫50文と見えるように代銭納の形態をとっていたこの鎌倉幕府の裁許状の通りに東寺へ年貢銭が納入されたかは不明であるが,遠隔地でもあり,さらに幕府の滅亡寸前の時期でもあり,おそらく実収入とはならなかったのではなかろうか小野の逢善寺に残る檀那門跡相承資并恵心流相承次第の中に,「天正八年庚辰壬三月十日,飯岡浄□寺□□相尅之義出来」と見える(逢善寺文書/県史料中世Ⅰ)井ノ岡の浄妙寺は,天台宗で逢善寺の門徒であったが,江戸崎の不動院をも加えた大きな対立があったようで,逢善寺の学頭定珍が出寺している逢善寺ではこの頃境内の整備をしており,天正6年には大門が新造され,天正8年には内殿の造作が終了しているので,この事と関連した対立かもしれない牛久市井ノ岡に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」