ケータイ辞書JLogosロゴ 石崎保(中世)


茨城県>茨城町

 鎌倉期〜室町期に見える保名。常陸国吉田郡のうち。室町期以降は「石崎」と見える。文永5年11月から同7年正月の間のものと推測される官中便補地別相伝輩并由緒注文案に,「当時他人知行所々」として,「同(常陸)国石崎保……件保者,本領主僧相慶,去建久六年寄附隆職宿禰之間,同九年申立官厨家便補多年知行,国宗之時相副本券,宛給妹了」と見える(壬生家文書2)。建久6年,石崎の本領主相慶は当地を小槻隆職に寄進し,同9年,官中便補地として石崎保が建立され,隆職子息国宗の時に隆職次女蓮妙に譲与された。蓮妙は,貞応3年一族の季継と当保をめぐり相論するが,安堵状を得て,蓮妙死去後は隆資に譲与された。文永年中には不知行地となっている。石川家幹の七男禅師房聖道が石崎氏を称したと伝えられるから(常陸大掾伝記/続群6上),石崎の本主相慶はこの禅師房聖道か。弘安田文は吉田郡の部分が欠けているため,当保の記載は不明だが,嘉元田文には「石前 三十五丁」と見える(所三男氏所蔵文書)。文永3年8月11日の造伊勢豊受大神宮政所下文写に,「造伊勢豊受太神宮所下 常陸国役□□□□(夫工催カ)可早止使催,令京済当国吉田社并石崎保所課造営米事」と見え,当保に賦課された伊勢神宮造営米は領家小槻氏の要請により京済が許可されている(吉田神社文書/県史料中世)。文和4年2月11日の佐竹義篤譲状に「吉田郡石崎保」と見え,嫡子義香に譲与され(佐竹文書/福島県史),康安2年正月7日の義篤譲状では小田孝朝妻(義篤娘)に譲与されているように(大山義次文書/家蔵文書),当保は佐竹氏の所領となっていた。この譲状ののち「保」の名称は見えない。応永29年霜月6日には井関の左衛門大郎は「よしたこおりいしさき東輪寺別当引旦那共」を質として,2貫500文を5文子で10か月間,寛宝坊から借用している(米良文書/熊野那智大社文書)。享徳2年4月9日,井関の左衛門大郎道慶・小ほうし女は,「いしさきの東福寺別当門弟引檀那一円」ほかを,13貫文で廊之房へ売却している(同前)。文禄3年の太閤検地を機に茨城郡に属す。文禄4年8月29日の東義久黒印状に,「五拾石〈石崎之内〉進之候」と見え,大隅義政に充行われている(大縄文書/県史料中世)。文禄5年蔵納帳(秋田県立秋田図書館蔵)に「〈高千四百七十八石六斗二升 此内七十六石九斗三升荒〉定物成百五拾貫文〈此内五十八貫六百文かゝり 岡大隅 石崎〉」と見え,佐竹氏の直轄領として代官岡大隅守によって支配された。慶長3年2月16日,佐竹義宣は,大縄勝兵衛・奈良民部・吉原修理に,石崎の内で50石をそれぞれ充行い(大縄文書/県史料中世,奈良総右衛門文書・吉原五衛門文書/家蔵文書),大縄讃岐(義辰)には同地のうちで100石を充行っている(大縄嘉兵衛文書/家蔵文書)。現在の茨城町上石崎・中石崎・下石崎に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271473
最終更新日:2009-03-01




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