ケータイ辞書JLogosロゴ 稲木(中世)


茨城県>常陸太田市

 南北朝期から見える地名。常陸国佐都西郡のうち。康永3年11月7日の願入寺歴代住持記録に「同州(常陸)久慈郡稲木」が見え(帰願寺文書),真宗教団とのかかわりが知られる。久慈郡と見えるが,当地は佐都西郡のうちと思われる。応永24年7月20日の足利持氏御判御教書写は石河左近将監に充てて同年2月7日・4月24日の稲木城における戦功を賞している(石川氏文書/県史料中世)。前年に起こった上杉禅秀の乱はこの年1月禅秀が鎌倉で敗死し収拾されるが,常陸にあっては禅秀方となった山入与義や大掾氏本宗家に対し,大掾庶家石川氏はいち早く持氏の軍門に降り本宗家と離反して禅秀方残党の掃討戦に戦功をたてており,これ以前の年未詳2月20日にも「去正月九日,於武州瀬谷原合戦致忠節之条,尤以神妙」といった持氏感状を得ている(石川氏文書/水戸市史)。明応3年頃と推定される年月日未詳の当乱相違地注文写に「一,稲木〈同〉(小野崎かゝへ候)」と見え(岡本元朝文書/家蔵文書),佐竹氏料所である当地が小野崎氏に押領されている。永禄10年10月27日北義斯は田名部玄蕃允に「稲木ニ屋敷分,田名部河内守名代」を遣わしている(延生弥兵衛文書/家蔵文書)。天正18年4月13日には北義憲が皆川左馬佑に当地を含む15貫文の土地を充行っている(皆河藤次左衛門文書/家蔵文書)。「戸村本佐竹系図」「密蔵院本佐竹系図」によれば佐竹隆義の二男義清が稲木二郎と称し,以後義保―実義―義繁―義信―盛義―義武と続いたという(新編常陸)。文禄3年の太閤検地を機に久慈郡に属す。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271619
最終更新日:2009-03-01




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