ケータイ辞書JLogosロゴ 岩井村(近世)


茨城県>岩井市

 江戸期〜明治22年の村名。下総国猿島【さしま】郡のうち。関宿藩領。村高は,「元禄郷帳」1,398石余,「天保郷帳」1,439石余,「旧高簿」1,469石余,「旧高旧領」1,439石余。人数は元禄3年1,000・寛延2年910・宝暦3年879(猿島の歴史)。家数は正徳5年201・宝暦3年182・明治8年270(同前)。明暦2年以前,江戸街道と銚子街道の交差する区域に市場ができて繁盛し,町分と在分に区分された。明暦2年,上町・下宿・新宿の間で六斎市について月6日開くこと,売品は紙・果物・染物・藍・鍛冶(金物農具)などとすることを定め,延宝7年には本町分・中町分・新町分の名で米穀のほか衣服・茶などについて厳しい市場法度を取り決めている(岩井飯塚家文書)。馬の市場として富士見馬場があった。茶問屋は5軒,高瀬船を持つものは2軒あった。鹿狩は享保年間に2回,ほかに寛政7年・嘉永2年にも出役。助郷は,享保11年・同13年・天保14年の将軍日光社参に日光東街道境宿・谷貝宿に出役した。文化7年にも両宿に,文政7年にも27人・馬27疋で両宿に助郷を勤めた(北下総地方史)。元治元年11月4日天狗党の志士7人が当地で処刑された(石下浅米家文書)。慶応4年4月15日大鳥圭介をはじめとする旧幕府軍1,200人が通過して諸川宿に向かった。閏4月19日旧幕府軍1,000人余が再び守谷方面から来て宿泊した。翌朝新政府軍が関宿から来襲し,旧幕府軍は敗退した。嘉永3年小山高台繰抜普請に続き,翌年の同逆留普請には人足54人を出している。寛文年間から茶の栽培が漸増し,寛保元年の茶年貢は永35貫文余。寺社は,浄土宗高声寺・真言宗延命寺,国王神社・八坂神社。高声寺は正応2年前田性真(唱阿)の創建,延命寺は守谷城主相馬氏の再建という。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年岩井村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271712
最終更新日:2009-03-01




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