ケータイ辞書JLogosロゴ 牛久(中世)


茨城県>牛久市

 戦国期に見える地名。常陸国河内郡のうち。永禄7年頃と思われる小田氏治味方注文に「うしよく おかみの山しろ」と見え,岡見山城がいた(上杉家文書/結城市史)。永禄4年頃と思われる関東幕注文にも「常陸之国……岡見山城守 同」と見え,岡見氏が小田氏と同じ洲浜紋を使用している(同前)。小田氏の勢力下に入っていた岡見氏が,戦国期までには当地に築城していたと思われる。岡見氏の出自については諸説があり確定しがたいが,結城合戦に岡見大炊助が上杉清方の被官として参戦しているので,永享年間頃には牛久周辺の土豪層の中でも有力な存在として,関東管領上杉氏の指揮下に入っていたようである(関東合戦記/続群21上)。戦国期には北西側に小田氏,東側に土岐氏の勢力が存在する中で,河内郡内にその勢力を扶植している。天正年間のものと思われる「本知行并旗本半手之覚」に記載された地名の範囲は,河内郡内の大半と筑波郡の一部にまで及び(御用所本),岡見氏は,牛久・谷田部・足高などの3拠点を軸に領内の支配にあたっていた。天正年間に入ると下妻の多賀谷氏の南下策が活発化し,岡見氏はそれへの対抗の必要から小田原北条氏方となったようである。天正15年頃と思われる北条氏照や狩野宗円および狩野照宗から足高の岡見中務少輔宗治にあてた書状が7点残り,八崎が多賀谷重経の手に属した事につき牛久からも注進があり,加勢に小金の高城衆や布川の豊島衆などが派遣され,牛久の岡見治広と相談し,防戦に努めている様子が知られる(岡見文書/結城市史)。北条氏照から岡見治広や一族の源五郎・彦五郎などにあてた書状,および北条氏政・氏直から岡見治広にあてた書状もあり,北条氏方として動いている様子を伝えている(同前)。北条氏政が上総の井田因幡守にあてた文書にも,牛久の守りに高城衆・豊島衆が交替であたっていることが見え,井田氏にも布川近辺への在陣を命じている(御用所本)。天正17年頃と思われる「小田原一手役書立」には「岡見治部太輔 牛久治広,岡見中務 足高宗治」と見える(安得虎子)。天正16年頃と思われる多賀谷重経が佐竹氏の部将御代安芸守にあてた書状中にも江戸崎の土岐治英と岡見彦五郎が相談して谷田部を奪回しようとしている動きが見えている(水府志料所収文書/結城市史)。慶長8年6月20日の野口豊前戦功覚書には,天正11年のこととして「九月八日ニうしゆく分谷田部之地へ働候て,うしゆくの衆のけ申候」とあり,同17年には「下妻,谷田部の城ニい申候内,しらはさまと申所ニ而,うしゆく衆と出合やり御座候」とある。「うしゆく,東輪寺と申候所ニて云々」とも見え(常総遺文所収文書/結城市史),谷田部をめぐる攻防をはじめ牛久衆との合戦が各所で何度となく展開されたことを伝えている。天正16年9月13日多賀谷重経が石浜因幡守や落合丹波守に与えた朱印状には「今度牛久衆数多討捕候刻,走廻之処寄特ニ候」と見え,各受領名を許可している(家蔵文書/結城市史)。この様な動きは,天正18年まで続いたようで,4月12日の多賀谷重経が布川の頼継寺にあてた書状に「岡見治部少輔討殺歟,又追出候上ハ,修理,牛久ニ有之而,江戸崎之儀者不及申,其外下総迄之錯乱可為恣候」と見える(同前)。岡見氏は江戸崎の土岐氏などと連携して牛久周辺において,佐竹氏などを背景とする多賀谷氏の進出を防いでいたが,小田原落城を境として牛久の地を去る。やがて由良国繁が天正18年8月朔日の秀吉朱印状に,「為堪忍分常陸国之内うしく任当知行旨云々」と見えるように(由良家伝記/続群35),牛久で5,000石余を拝領している。国繁は慶長16年に牛久にて62歳で没し,子貞繁が遺領の一部を相続している(寛政譜)。また,山口重政が慶長6年に牛久5,000石を拝領し,慶長18年に一時所領を没収されるが,寛永6年には再び所領を還付されている(同前)。宗教関係では,「一代無縫目抄」に,「天文十三年,於牛久円通寺,良舜写」,「止観大綱集」に「天正八年,於牛久十如房,頼舜写」と見え,牛久の円通寺や十如房で天台教学に関する写本が作成されている(昭和現存天台書籍総合目録)。慶長4年頃に作成された熊野の廊之坊および実報院の「諸国檀那帳」にも,「うしく」と見える(熊野那智大社文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271781
最終更新日:2009-03-01




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