ケータイ辞書JLogosロゴ 牛久村(近世)


茨城県>牛久市

 江戸期〜明治22年の村名。河内郡のうち。慶長6年牛久藩領,同18年幕府領を経て,寛永6年からは再び牛久藩領。村高は,「元禄郷帳」862石余,「天保郷帳」「旧高簿」ともに870石余,「旧高旧領」880石余。「寛文朱印留」では牛久町村と見え,屋敷小出・野銭が高に入るとある。水戸街道の宿場で,牛久宿ともいう。問屋場は飯嶋家の麻屋で,本陣は上町の佐野佐右衛門が経営していた。文久2年の旅籠屋は大黒屋・河内屋・麻屋など15軒。文化元年の人足18・馬11(牛久町史史料編)。文久3年12月1か月の人馬数は,1,056人・881匹,1日平均28人・34匹(史跡散策)。牛久宿の定助郷は天宝喜村ほか6か村で勤高589石。天明8年から寛政9年までの加助郷差村は19か村,勤高3,717石。文化元年10月,助郷過重に反対する小池村など106か村の農民6,000余人が女化原【おなばけはら】に参集し,久野村の牛久宿人馬請負人和藤治宅・牛久宿問屋麻屋を打ち毀すという牛久宿助郷一揆が起きた。牛久藩では陣屋付の14か村3,000余人の農民を動員して警備にあたり,土浦藩・谷田部藩・陸奥仙台藩竜ケ崎陣屋などからの出兵を得て鎮静した。寛政12年の人口519・馬17,安政3年の人数708,うち奉行人12・借家人26,馬38,うち拝借馬23(牛久町史史料編)。安政6年大火により,40軒が焼失。寛弘5年創立という八坂神社があり,牛久藩主山口氏の祈願所であった。寺院は宝永8年創建の曹洞宗正源寺,ほかに日蓮宗観成院,真言宗長福寺・蓮蔵院・遍照院(いずれも現在廃寺),天台宗行学院薬師寺(現在廃寺)。明治8年茨城県,同11年河内郡に所属。明治6年牛久小学校開校,同16年城中小学校を合併。明治8年牛久郵便局開局。「共武政表」によれば,戸数159・人口877,産物は米・麦・豆・粟。明治22年牛久村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271782
最終更新日:2009-03-01




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