ケータイ辞書JLogosロゴ 浦向村(近世)


茨城県>境町

 江戸期〜明治22年の村名。下総国猿島【さしま】郡のうち。関宿藩領。村高は,「元禄郷帳」77石余,「天保郷帳」139石余,「旧高簿」150石余,「旧高旧領」139石余。寛永2年の検地では田畑10町余,明和7年の家数42・人数202,寛政12年の家数33(本谷家文書)。文化3年の家数33(猿島上郷窮民永救録趣法書)。鹿狩の勢子は享保10年・同12年・寛政7年・嘉永2年に勤める。助郷は,安永6年を除き将軍の日光社参にはすべて人馬を出した。寛政12年の日光法会には日光街道中田宿,栗橋宿(埼玉県)の加助郷を勤めるため買人馬の賃銭1軒152文と高割1石につき36文7分を負担(本谷家文書)。慶応4年会津戦争に伴い新政府軍送迎の人馬を日光東街道宿々に出した。文化5年,当村は下小橋・金岡・百戸・一ノ谷・伏木・染谷村などと赤堀川河口切り拡げについて議定をしている。天保12年には中利根御普請を請負う。寛保元年一ノ谷沼の入会について5か村で肥料用藻草取り・漁猟の縄張りを決め,違反者の過料は銭2貫文とした(同前)。寺社は真言宗善福寺・香取神社。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年猿島村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271855
最終更新日:2009-03-01




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