ケータイ辞書JLogosロゴ 瓜連(中世)


茨城県>瓜連町

 鎌倉期から見える地名。常陸国久慈西郡のうち。正安3年3月3日の関東下知状は,常陸国大窪郷内塩行倉村田地5町および在家5宇に関して鹿島社大禰宜中臣則氏の訴えを裁許したものであるが,文中に「又無名主之儀,但苽連沙汰人称願限三ケ年所買得也」と見え,当地の沙汰人(名主)称願が大窪郷の名主職に関しても3年間の年期で買得している(鹿島神宮文書/県史料中世)。「正宗寺本北条氏系図」に北条時頼の孫として「苽連備前入道 貞国 元弘三自害」と見える。建武3年,楠木正家・小田治久らの南朝勢力は,近隣の那珂氏を後援に,瓜連城を拠点として北朝方の佐竹・大掾氏らと対峙する(水戸市史)。同年8月日・12月日および翌建武4年5月日の伊賀盛光軍忠状などに瓜連城をめぐる戦闘の模様がみられ,同城は建武3年12月11日に落城する(飯野文書/福島県史)。なお,延元元年5月4日の佐竹幸乙丸代着到状写に「入野七郎次郎⊏ ⊐助房,自今年去〈建武三〉二月廿五日至于今,馳籠常□□久慈郡苽連左近蔵人正家之楯,及合戦之⊏ ⊐遅参仕候也」と見え(吉田薬王院文書/県史料中世),瓜連城攻防の背景には,那珂氏と佐竹・大掾諸氏の領域支配をめぐる抗争,佐竹氏内部にも佐竹氏庶子の南朝方参戦がみられ,瓜連落城後も当地を中心として掃討戦が展開されたことを物語っている。さらに暦応4年10月29日の別府幸実着到状(別府文書/大日料6‐6),興国元年11月18日の北畠親房御教書写(結城文書)などに「苽連」が見える。また興国元年4月9日の北畠親房御教書は結城親朝にあてて「所詮自東海道,苽連辺まてにても,那須辺へにても,奥勢競臨候者,凶徒退散不可廻時刻之由,面々申候,如此之時分,被致忠節⊏⊐,本望可満足候也」と見え,南朝方の瓜連・那須回復を訴えている(同前)。しかし,同2年2月18日の北畠親房御教書写に「坂東事,師冬自去年冬,雖令経廻苽連,未及合戦,加風聞者,依無勢不可叶之由」と見え(同前)。暦応4年10月29日の別府幸実着到状案(別府文書/大日料6‐6)および康永3年2月日同軍忠状(集古文書/大日料6‐6)などによれば,当地に高師冬の北朝方が進駐し,常陸国内の南朝勢力の拠点である小田城・東条城など攻略の軍事基地となっていた。瓜連城落城は那珂氏の滅亡と佐竹氏本家の常陸国北部の完全掌握を決定付けることとなった(水戸市史)。応永22年8月22日の了誉譲状は弟子了智房に「瓜連草地常福寺別当□(職)」を譲与しているが,同寺は先師了実(成阿)を開山とし,浄喜(佐竹義篤)御寄進の地であったことから(常福寺文書/県史料中世),佐竹氏と当地との関係がうかがわれる。応永24年卯月26日の飯野光清軍忠状によれば,光清が上杉禅秀の乱に際し「佐竹凶徒可令退治旨……一族等今月十日国於罷立,同十五日依苽連参陣仕候,長倉常陸介降参仕候訖」という戦功を立て,鎌倉公方足利持氏の証判を受けている(飯野文書/福島県史)。明応3年頃と推定される年月日未詳の当乱相違地注文写に「一,うりつら矢野方〈同(小野崎)下野三郎〉」「一,うりつら熊野堂〈小場違乱〉」「一,うりつら仏眼寺塔中方〈小野崎治部少輔違乱〉」とあり,当地への小野崎・小場氏らの相違・違乱がみられ,また「一,うりつら西方 前所」とも見える(岡本元朝文書/家蔵文書)。文禄3年の太閤検地を機に那珂郡に属す。慶長7年11月25日の徳川家康朱印状写には「常陸国中郡瓜連郷」と見える(常福寺文書/県史料中世)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271857
最終更新日:2009-03-01




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