ケータイ辞書JLogosロゴ 枝川村(近世)


茨城県>ひたちなか市

 江戸期〜明治22年の村名。常陸国那珂郡のうち。はじめ佐竹氏領,慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」905石余(ほか新田36石余),「元禄郷帳」1,253石余,「天保郷帳」1,338石余,「旧高簿」1,214石余。用水は小場江用水路。文化年間の村高と灌漑水田の比率は村高1,278石余に対し790石余で61%(勝田市史)。「水府志料」によれば,常葉組に属し,戸数129,村の規模は東西16町余・南北9町余。助郷は佐和・枝川・田彦宿などに出役。鎮守は赤城明神・今鹿島明神(鎮守帳)。寛文3年「開基帳」によれば,寺院は天文4年創建の真言宗福寿院,永正年間以前創建の地蔵院,元亀2年以前創建の行善院,天文17年以前創建の宝光院,天文15年創建の覚音坊のほか,行人の自性院があったが,寛文6年の水戸藩寺社整理でいずれも破却。その後天保年間に真言宗泉蔵院が畳寺(廃寺)となった(筑波根於呂之)。このほか鍋被り上人伝説で知られる湊村の浄光寺は当村から移転したもの(水府地理温故録)。那珂川を挾んで水戸城下町と相対する当地は,岩城相馬街道・棚倉街道などが整備されると,重要な宿駅として栄えた。天和年間以前には花柳街が置かれ(同前),元禄年間にはすでに宿駅が置かれていた。那珂川の舟運の発達により仙台河岸・下河岸(五兵衛河岸)・二見河岸があり,水戸藩御用河岸として商品流通の拠点として栄えた。天保年間は木綿の黒染が特産。文武も盛んで,俳人では水戸地方の俳諧の大家幻窓湖中の高弟で知られる河岸問屋の川嶋露白・太青父子がいる。民間武術では無比無敵流7世軍司次左衛門がいた(勝田市史)。那珂川・早戸川の氾濫による洪水の多発地域で,天明6年7月戸口の鴨居を越える大洪水があり,住宅57軒・物置小屋53軒を流失した(県水害誌)。明治4年茨城県,同11年那珂郡に所属。明治22年川田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271886
最終更新日:2009-03-01




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