ケータイ辞書JLogosロゴ 大方郷(中世)


茨城県>千代川村

 鎌倉期から見える郷名。下総国のうち。寛元元年11月11日の香取社造営所役注文に「三鳥居一基〈大方郷役〉関□□(左衛)門尉」と見え,当郷の地頭は関政泰であった(香取神宮文書/結城市史)。平安末期に小山行政の子政家が,下総国大方・常陸国関の両所を領し,大方五郎と称した(尊卑分脈)。政家の子政平(あるいは俊平)は関郷に移り関次郎と称したが,当郷も兼領していたとみられる。政平は保元の乱には源義朝に属したが(保元物語),源頼朝の挙兵に際しては志田義広の叛に加わり,敗れて所領を削られ,関氏は弟政綱が継いだ(関系図・吾妻鏡)。政綱は承久の乱に北条泰時に従って宇治川に溺死(吾妻鏡)。その子政泰は関・大方の両所を領しており(関系図),当郷は政家―政平―政綱―政泰と続く関氏に伝領された。関政泰は宝治合戦に際し三浦泰村に味方し法華堂において自殺,関城は小栗重信の攻撃を受け,政泰の子政郷は結城へ逃れた。年月日未詳の香取社造営記録断簡には「三鳥居一基,作料官米百石,大方郷本役也,仍地頭諏方三郎左衛門入道真性造進之」と見え,当郷の地頭は諏訪氏で,文永8年12月10日の香取社の遷宮に際し郷役を負担している(香取神宮文書/結城市史)。関政郷の子政祐に至り関城に復帰し,当郷の地頭職も同時に回復したものと思われる。正和5年2月日の香取社造営記録断簡に「□□鳥居一□ □□郷役関左衛門尉」とあり(香取社旧録司代家文書/結城市史),欠字部分の郷名は大方郷と推定され,関左衛門尉は政祐と考えられる。政祐の子宗祐は,南北朝の争乱に際し南朝方として戦ったが,興国4年敗亡したと伝え,再び関氏の支配を離れる。康永4年3月の香取社造営所役注文に「当国諸御家人勤仕役所」のうちとして「三鳥居 当国大方庄役所」と見え,地頭名が記されていない(香取神宮文書/結城市史)。これは,すでに大方郷の地頭関氏が敗亡していたためと思われる。応永2年8月3日の宍戸希宗条目に「下総国大方郡今里郷円福寺法儀条々」と見え,この時期には郡名として使用されている(円福寺文書)。元禄2年の「常陽下妻香取宮円福寺記録」によれば,円福寺は鎌倉公方足利氏満が祖先の供養のため,宍戸遠江守入道希宗と赤松入道祐弁に命じて寺と香取宮を造営させ,応永2年創建されたという(円福寺文書)。円福寺は大方郷の中心的な寺院で,祈願所として認められていた。下妻小野子の千手観音坐像は,像内墨書銘によれば,永正17年□月1日に,多賀谷基泰が大檀那,中山七郎五郎が小檀那となり,下妻住人横須賀小六・亀子夫妻の発願,星光亮舜という聖の勧進により,「下総国太方郡村岡館住人,仏師弁法眼」の手によって造像されている(下妻市史)。天文18年3月19日の多門坊改源旦那売券によれば,多門坊改源が勝達坊に「大方郡和賀八ケ村一円」を,豊田荘・山川・関郡・下妻などとともに,その旦那職を5貫文で売却している(潮崎稜威主文書/結城市史)。その後,文禄の太閤検地に際し豊田郡にくみ込まれたと考えられる。現在の八千代町東部および,鎌庭を含む千代川村西部のあたりに比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271960
最終更新日:2009-03-01




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